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Moonia Chloris

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 7月3日
  • 読了時間: 19分

ムーニア・クロリスー月花の女神ー

 

 

 

 

ツー―――。ピッ。

『やあ。調子は?』

「相変わらずだな。界塚伊奈帆」

『僕は、君の調子はどうかと聞いているんだけど』

「見ての通り」

『見えないから聞いてる』

「見えてても聞くだろう」

 スレインは操作盤のつまみを捻り周波数を微調整する。

『花は?』

 ノイズ交じりの伊奈帆の声が若干だがクリアになった。

「ああ。プランテーションに異常はない。土も水も大気も、上手く馴染んだな」

『それは知ってる』

「綺麗に育った」

『そう』

 椅子を引き、座る。ヒトデのような椅子脚に五つついたキャスターが、ごろ、と床を擦った。

『明後日のシャトルで、そっちに行くよ』

「仕事か?」

『まあね。でも、一日は非番』

「ふうん」

 モニタ下部に並んだの日時の右側を確認する。-2025/07/01-00:23-

『観光案内してよ』

「案内といってもな」

 スレイン専用端末は、こちらの時刻と日本の標準時刻を表示している。あいつ、どこから通信しているんだ?

『何年になる?』

「3年だったかな」

『3年と6か月11日』

「覚えてるのか?」

『うん』

「うわ」

 ということは、2022年1月20日か。面会室でのクラッカーの連続音が鼓膜の内側に錯覚された。ケーキとジュースと本があった。あれは、こいつなりの餞でもあったのか、と今更ながら思い至った。

『僕は三回目だよ』

「何が?」

『月へ行くの』

「そうだったか?」

『一回目は、ほら。君と撃ち合った』

「あれをカウントするのは君らしい」

『ま、着いたら寄るから。どこか遊びに行こうよ』

  スレインは眉を左右非対称にしかめ口を極限まで歪ませた。見えていないと知ってはいるが。

「了解だ。切るぞ」

『10-4。スレイン・トロイヤード』

 

 

 ――月面基地の遺跡機構にプランテーションを建設する。

 

 

 そういうプランが、僕の耳に届いたのは数年前。真夏の湾岸道路を走る車中だった。

「どう?」

「は?」

 僕が問い返すと、運転席の界塚伊奈帆はわざわざ首をぐい、と動かし視線を寄越した。視界が一つしかないのだから脇見は危険と思ったけれど、僕が言えた筋合いでもない。助手席のサイドウィンドウから外を見る。夏の日差しを照り返す波は、粉々になった鏡の破片が散乱するように目に痛い。

「いい車だな」

「6年目だけど」

「新しさや機能を言ってるんじゃないさ」

「じゃあどこ?」

「色と、ジュリー缶のデザイン」

「目のつけ所がいいね。名前も、きっと気に入るよ」

「へえ」

 隣で、トトン、とハンドルを叩く音がした。

「やらない? 君が」

「なんの話だ?」

「だから、植物園の仕事」

「はあ?」

 勢いよく顔を向けて大きな声を出す僕を、界塚伊奈帆はまたも首を回して一瞥する。常の通りの薄い表情。シートに深く背を預け、肘をドアポケットのでっぱりに置く。

「どうして僕が?」

「詳しいでしょ。花」

「まあ、君よりはな」

「揚陸城で育てていたって」

「ああ」

「鳥も」

「鳥は、繁殖まではできなかった」

「自然が好きだし」

「好きか嫌いで、考えたことはないけど」

「向いてるんじゃない?」

「君は、そう思うのか?界塚伊奈帆」

 クーラーとエンジン音。フロントガラスの先には、オレンジ色のセンターラインが続いている。

「思うよ」

「ふうん」

「理由を聞く?」

「……また今度」

 話したそうな界塚伊奈帆に、僕はゆるゆる首を振った。

 

 

「月面プランテーションの件。考えといて」

 収容施設の地下通路、収監服に着替えた僕に界塚伊奈帆は念を押した。

「考えろ、と言われても」

 格子窓を見上げる。真昼の月は見えない。夜の月明かりは、独房には届かない。

 

――廃墟となった月面基地を平和遺構として再建する。

 

 月面基地。第二次惑星間戦争最終局面で僕が破壊した場所だ。月に築いた文明をこの手で破壊した。ボタン一つで。

その場所に戻り、同じ手で花を植える資格があるのか。この僕に。

「……こんな言い方しか、僕の立場からはできないけど」

 月面プランテーション“ムーンライト・ガーデン”は、と界塚伊奈帆は続ける。

「地球の極秘施設より、月面の平和遺構が収容所として適切である、という両サイドの政治的判断から、賛成多数で可決された」

「言い出したのは、君じゃないのか?」

「僕にそこまでの発言権はないよ。軍人の一人でしかない」

 でも、と伊奈帆は口を開く。

「一人じゃない。そういうことを望んで声を挙げたのは」

 

 

 

 ――ピピッ。

 虹彩認識でロック解除。プランテーションエリアへのスライドドアが音もなく開いた。まずあるのは、金属質な壁面の事務室兼、更衣室兼、通信室兼休憩所。昨夜の界塚伊奈帆との衛星交信も、この部屋の電子機器だった。

「おはようございます、アンダーソンさん」

「はい、おはようございます」

 歩み寄る同僚のにこやかな笑顔に会釈し、スレインはポールハンガーの白衣を手に取り袖を通す。同僚は両手に持ったスチール製のマグカップの一つをスレインに差し出した。湯気の立つホットコーヒー。

「あと5日ですね。平和式典」

「ええ」

 彼はデスクに半分腰掛ける姿勢でコーヒーを一口啜る。スレインがこの仕事をはじめてからの付き合いである。月に数度、仕事の後に呑みに行く。そのくらいの関係性の知人。年齢はいくつか上だろう、ということ、中東系の容貌で、共通言語に訛りがなく、抽象的な話題を好むこと。どこか達観した物腰であること。知っていることはそのくらいだ。

「ここの花を式典のステージに飾るとは、UFEも粋なことをする」

「地球から取り寄せるよりも、鮮度も政治的意味合いもずっとメリットがありますから」

「そりゃそうか。でも、火星の女王が月で、地球軍主催の平和式典の主賓をなさるとは。時代は変わりましたね」

おそらく、自分と同じで旅の多い人生だったのではないかと思いつつ、スレインは彼の淹れたコーヒーを口に運ぶ。シナモンが効いたインスタント。

 彼は手元をじっと見て、片目を細め口を開く。

「自分は、実は月の生まれで」

「そうなんですか」

「ええ。両親が月面基地の技師でした。へズンズフォールのすぐ後、私は地球へ送られたんですよ。その時、8歳くらいでした」

 スレインは壁にもたれ、足を踏みかえ両脚を軽く交差した。

「どうして、月に戻られたんです?」

「どうしてでしょうね」

 彼は視線をコーヒーの水面に落とし、カップの側面を両手で包む。

「地球で、月を見ます。半分の大きさの白い衛星、破片が浮かぶ夜空を見上げる」

 双眸は宙に向き、スレインは視線の先を無意識に追う。金属壁のリベット打ちの凹凸がある。

「あそこにいたんだな、と思うんですよ。――三重ガラスの丸窓から見える地球、滅多に入れない無重力エリア。機械の稼働音が壁を揺らすあの感じ」

 スレインの耳に、今は遠い、変形重力中の駆動音が聞こえた気がした。

「月から見た地球は綺麗だったし、憧れでした。地球から見る月は、綺麗というより痛々しくてね。見るのが辛いときもありました」

 彼は自身の後頭部に手を遣った。複雑そうな笑顔が浮かぶ。

「それでも、やっぱり見てしまうんです。両親が地球から見た満月って、どんなんだったんだろうって」

 その現象は、前世紀に失われた。フルムーン。満月なんて言葉、今ではステーションの売店くらいでしか見られない。

 スレインはコーヒーを持つ手を反対にして、空いた右手に肘を置く。

「故郷のようなものですか?」

「ああ、そうかもしれません」

 彼は明るい瞳で歯を見せ、温室へ続くドアへと顔を向ける。

「月に花が咲くのなら、と私はこの仕事に応募したんです。植物工学の専門家として。今は地球の花を移植するだけですが、ここで生まれた月の花を、いつか地球に届けられたらいいな、と思います」

「そうなればいいですね」

「貴方がいなくちゃはじまりませんよ。ミスタ・アンダーソン」

「僕ですか?」

 はい、と彼はうんうん頷く。ハンドジェスチャーを交え、弾む声で話し出す。

「ラボで開発中の月の花。私はあれに心を奪われました」

 白い紫陽花、青い薔薇。緑のジニア。

「どれも、仄かに光を放って。幻想的で、まさに“ムーンライト・ガーデン”の象徴そのものの花です」

「開発というか、遺伝子操作で環境に強い品種を模索しているだけですけどね」

 ハハハ、と笑い声が天井に反響した。彼は直立し、右手をすっと差し出した。

「私は知識と技術はありますが、どうも美的センスがからきしで。貴方の構想は美しい。共同開発者として、楽しみでなりません」

 スレインは、その手を握る。関節が目立ち指先が固い。技術者の手だ。

「ありがとうございます。頼りにしています」

 彼はウインクし、湯気の消えたカップの中身を飲み干した。

「さあ、麗しき女王陛下の背後を飾る花の手入れをいたしましょうか」

「ええ」

 扉を開くと、温風が頬で笑った。

 

 

 

 ――3年前。9月。

「引き受けよう」

 地球僻地。地球連合軍管轄極秘施設面会室にて。

 

 “月面プランテーションの仕事をしないか”

 

 界塚伊奈帆の出した宿題。2か月後の返答だった。

「そう。はいこれ」

 言いながら、書類の束がテーブルを滑った。手ぶらに見えたが、どこに用意していたのか。

「すぐ出てくるんだな」

「はい、ペンも」

 ペン尻の向いたボールペンを右手で受け取り、スレインは書面を確認する。

「名前は……。レイン・アンダーソン? 誰が決めたんだ?」

「僕」

「へえ」

「感想は?」

「普通っぽい」

「でしょ」

 紙を捲る。大したことは書いていない。想像予想の域に収まる微小な文字の羅列を見ながら、スレインは一度ペンを回す。口を開く。

「レインって、ほとんど変わらないけどな」

 伊奈帆はうん、と声に出して頷いた。

「そう。だから、返事をスルーすることもない。迂闊な君でも」

 ペンがくるり。

「僕のどこが迂闊だ?」

「わりと隙だらけ」

「言ってろ」

 八枚目。スレインはペンを回す手を止めた。

「“月面プラテーション植物園管理人、兼、植物工学研究所職員”なんだこれ?」

「植物学者として働くってこと」

 かたん。取り落としたペンがテーブル辺と直角を描く。

「労働者として起用するんじゃないのか」

「君は知らないかもしれないけど」

 伊奈帆は、机の上で自身の指を組み合わせる。発声。ネクタイは黒色のプレーン・ノット。

「平和になったんだよ。地球も火星も。月もね」

 

 

 

 月面都市7番ステーションで、シャトルが入港するのを、スレインはロビーの曲面ガラスから眺める。足下の絨毯は深紅ではなく濃紺。

かつての基地の、来客用の棟だった場所だ。機械系統は自爆で全て落ちたが、このエリアの被害は少なかった。一時的な居住エリアであり、シェルターどころか防護壁すら一枚しかなかったのだ。

 月の破片が流れる真空を眺めていると、先ほどのシャトルの乗員がロビーに現れ始めた。その中に見知った顔を認め、スレインは歩み寄る。

「やあ」

 伊奈帆が片手を挙げて軽く言う。カジュアルな私服姿で、ディバッグと小型のスーツケースを携帯していた。隣に並ぶと、伊奈帆が進行方向を示した。連れ立って、エアポートからメトロへと向かう。

「しばらくだな。少し背が伸びたか?」

 歩きながら、スレインが聞いた。以前より、視線が近く感じたからだ。

「わかる? 2.7センチメートル」

 伊奈帆は若干のプラス感情を滲ませ即答。歩く速度が少し緩んだ。

「いつからの差だ?」

「君と最後に会った年の健康診断の測定値から。つまり3年前」

「へえ」

「少し痩せた?」

「さあ」

「ま、元気そうで安心したよ」

 案内板で立ち止まった。月面ステーションの立体映像が、回転しつつディスプレイされている。三つのリングが縦に連なる設計で、ショッピングモールやテーマパーク、博物館、美術館、図書館、文化複合施設をメトロでつなぐ月面都市の中心部“ムーンバレー”――

その中に、スレインの働く植物園“ムーンガーデンも存在する。

スレインは案内板のパネルに指で触れる。各階層のエリアがジャンルで色分けされた。”

「どこに行く? ショッピング?博物館?モニュメント? それとも、僕の仕事場か?」

 伊奈帆はパネルの最上階を指さした。

「遊園地に行こう」

 

 

 

――3年前。冬の車中。

「本当に、月に行くんだな」

「スケジュール通りだと、36時間後には初勤務」

 市街地の枯れた木々を横目に呟くと、伊奈帆がいつもの声音で淡々と答えた。

「想像できない」

「そうかもね」

 暖房で乾燥した車内に、数時間前に買った缶コーヒーの揮発した苦みが溶け入っている。

 スレインは、ヘッドレストに頭を押し付け運転席に顔を向けた。

「君は、これからどうするんだ?」

「僕?」

 道はカーブに差し掛かる。伊奈帆はフロントガラスの先を見たまま、ハンドルをゆっくり左に回した。

「普通に暮らすよ。これまで通り」

「普通か」

 意外なような、この上なくしっくりくるような、そんな答えを反芻する。

「お弁当持って職場行って、帰りにあみふみ食堂寄って。休みの日には買いだめしたり遠出したり」

「そうか」

 お弁当。食堂。買いだめ。表情に乏しく情緒に欠けた言動しかしない男だが、不思議と人間臭いのはこういうところなのだろうと今更思う。

「ただ、一つ変わる」

 ぐい、と慣性に引っ張られ右に傾ぐ。

「施設通いか?」

「そう。この道を運転するのも、今日で終わりかと思ってさ」

次は左。道は蛇行を繰り返す。

「君のそれは、どういう感情なんだ?」

「感情ね」

 市街地。山道。湾岸。また山道。施設までの数時間の道のりを、彼は3日と空けずに訪れていた時期がある。僕に会うため。僕と話をするために。

「アナリティカルエンジン」

あれは雨の季節だった。

「外した時に、少し似てる」

 伊奈帆の声は、雨の日の面会室の響きを宿して乾いた空気に発せられた。

 

 

 

 ぐら、と踏んだ床が安定感を失った。スレインはタラップの先に入り込む。向かい合ったベンチの右の座面に腰を下ろす。後から乗り込んだ伊奈帆が、スレインの斜めの位置に続いて座る。

「Good luck。よい月面遊泳を」

 スタッフが笑顔で言い放ち、昇降口の扉をロックした。ぐらん、と一度大きく揺れ、救命ポッドめいた密室はゆるやかに上昇する。

「男二人で観覧車とはな」

 球体の上面ガラスを見上げ、スレインは肩を竦めた。真空の宇宙に、星とデブリとシャトルの赤い点滅が見える。

「言葉にすると重いね。重力は六分の一だけど」

 伊奈帆が横窓の外に顔を向けたまま言った。スレインは眉を歪める。

「今のジョーク、二度というなよ」

「どうして?」

「笑えないからさ」

「? よくわからないけど」

 伊奈帆はディバッグのファスナーを開き、中に手を入れる。スレインはその間、彼の頬の青い光の照り返しをぼんやり眺めた。

「これ、預かりもの」

 差し出されたものを、スレインは右手で受け取る。表。裏。何も書いていない。

「手紙?誰から?」

 封もしていない白い手紙。手触りはざらついている。ハンドメイドのこの紙は、地球のどこかの伝統工芸だったかな、と思い、幾つかの国の記憶がオーバーラップした。

「読めばわかるよ」

 静かなる浮遊の中、スレインは封筒の中に指を差し入れる。便箋は1枚。白い紙は、封筒と同じで厚みが均されていない。手漉きの紙は、和紙、といったか。いつかの面会室で、界塚伊奈帆が差し入れの和菓子の包装紙について講釈したのが思い出された。

 二つ折りの手紙を開く。

 ブルーブラックのインクの濃淡。

 流れるような筆記体。

 その、ところどころに、擦れたような滲みがある。

 ――この文字を知っている。

「スレイン、地球だよ」

 声に顔を上げる。いつのまにか、観覧車内は全てが青に染まっていた。

「“空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた”」

 界塚伊奈帆が、横窓に体を向けて座って言った。スレインは、青い肖像のような彼の姿をしばらくじっと見つめた。私服姿の彼の横顔は、軍人にも、カタフラクトパイロットにも見えなかった。

「“天には神はいなかった”」

 スレインは応答する。そして、彼と同じものを視界に宿す。月面のカタフラクトの残骸を、廃墟の基地の指令室を、かつての少年兵を、かつて敵同士だった二人の男を。青い幻想へと変える惑星を。

 横目を送ると、ふっと視線が交差した。伊奈帆は首を伸ばして天を見る。

「“あたりを一所懸命ぐるぐる見回してみたが、やっぱり神は見当たらなかった”」

 その先にあるのは、はじめと同じ。星とデブリと、シャトルの遊泳ランプだった。

 がこん、と揺れた。ここが頂点。下降が始まる。

「何でも知ってるんだな。界塚伊奈帆」

「君こそ。スレイン・トロイヤード」

 地球の色が引いていく。潮の満ち引きのようだとスレインは思った。

 

 

 

— Slaine

 

How have you been?

 

I heard you’re going to the Moon—to tend flowers, they said.

 

Someday, I hope you’ll bring one of those flowers to me.

 

You once promised me a bird from the Moon, remember?

Though we parted before you could keep that promise,

I was truly looking forward to seeing a creature that could fly.

 

But… it’s all right now. I forgive you.

Because I saw a bird.

 

On Earth.

The sky and sea—such vivid shades of blue.

I never knew the air could ripple, until you taught me.

 

The wind brings thoughts of you.

And the scent of the ocean—that must be Earth’s color.

 

Please, bring me the flower you grow on the Moon.

I’ll be waiting for it, by the sea on Earth.

 

P.S.

Don’t keep me waiting too long.

If you do, I might just come find you myself.

 

 

 

「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンでお知らせください」

「はい」

 店員のふわふわとした後姿を見送り、伊奈帆はメニューを表示する。電子パネルには、3Dで料理やドリンクが表示され、文字が次々浮かび上がる仕掛けである。

「こういうお店、よく来るの?」

 宇宙港内部の、重力制御のないダイニングバー。メタリックな内装の所々が木製で、食器の形がユニークだ。暖色の空間照明に、蛍光色のインテリアライトが配置されている。

「二回くらい、同僚に誘われて」

 二人掛けの円テーブルの向かい側、メニュー越しに見えるスレインの口元が斜めになる。伊奈帆はメニューのスクロールボタンを操作した。回転寿司のようにメニューが入れ替わる。

「3年も勤めてるのに、二回だけ?」

「普段は、もっと下層で飲むんだ。ムーンバレーは帰り道には遠すぎる」

「へえ」

 伊奈帆はドリンクのメニュー表示をぐるぐる回す。最高速度はこのくらいか。

「じゃあ、今日は特別ってこと?」

「観光だからな」

 スレインが映像をタップした。ロンググラスがポップアップ。

「星屑ビールって?」

「頼んでみるか?」

「うん。……これは? オキアミのから揚げ」

「ああ、それ、おすすめだ。味が選べる」

「アルテミス、ディアナ、ロナ、メツトリ、カグヤ……。味がピンとこないネーミングだね」

「君ならカグヤだろう。ショーユ」

「醤油なら間違いないか。じゃあそれで」

 いくつかリストアップし、注文ボタンを押す。遠くで電子ベルの音がした。コックピット内で聞いた通信アラームに似ているな、と思って前を見るとスレインも伊奈帆を見ていた。同じことを考えていたのかもしれない。

「明日は?」

 スレインがテーブルに肘をついて聞いた。口調は軽いが、指先から伸びる影が濃い。今日一日、これが聞きたかったんじゃないか、と伊奈帆は推測する。

「リハーサル。朝イチで」

 伊奈帆は机の上に両手を置いた。自然と指を組む。彼と話すときの癖だ。親指の爪同士がじりじり接する。

「君はどこを? 聞いちゃまずいか」

「ま、遠いかな。肉眼では見えない距離」

「……ふうん」

「左目があれば」

 伊奈帆の言葉にしん、と一度音が消えた。スレインは、見据えるような視線を固定し静止している。

この表情も懐かしいな、と伊奈帆は組んだ指をほどく。

「って、思った?スレイン・トロイヤード」

「それは、君のほうだろう。界塚伊奈帆」

「まあね」

 背伸びをするように伊奈帆は周囲を見回す。壁際の観葉植物が目についた。

「キラキラしてる。どういう仕組みだろう?」

「蛍光植物さ」

「へえ。それって」

「星屑ビールとカグヤです」

「あ、ありがとうございます」

「こちら、追いショーユです」

「追い醤油……」

「追加のご注文はございますか?」

「後でパネルから」

「承知いたしました。ごゆっくり」

 から揚げの盛り皿に冷えたグラスが二つ。SFめいた醤油さしに、国際的なカトラリー。伊奈帆が箸を選び、スレインもまた箸を選ぶ。テーブル上に展開された居酒屋飯を前に、なんとなく顔を見合わせた。スレインがグラスを持ち上げたので、伊奈帆もそうする。

「乾杯しようか」

「何に?」

「何にって言われても。何でもいいよ。君が決めたら」

 スレインは三秒ほどグラスの中で立ち上る泡の光を瞳に移し、やがて優しく微笑んだ。

「じゃあ。月の花に」

 カチン。

 

 

「味は普通だね」

「ああ」

 オキアミのから揚げを初めて食べた伊奈帆の感想に、スレインは醤油をかけつつ頷く。

「日本の居酒屋にも、こういうのあるよ」

「他の国でもこういう揚げ物よくあるな」

「昔、火星ではオキアミとクロレラが主食って聞いたときはさ。僕は口の中が酸っぱくなったよ」

 スレインはくすっと笑った。箸で一つを挟み取る。

「まあ、慣れればどうってことないけど。こういう嗜好の強い食べ方はしないな」

 ぽい、と口に放り込む。彼は再び醤油を足した。その間に、伊奈帆は追加メニューを三つ選びボタンを押す。遠くのベルの音に、スレインの鼻息がふっと漏れた。

「月まで見えた、って。前に言ってただろう?」

 伊奈帆は箸を置き、ビールを二口飲み込んだ。

「よく覚えてるね」

「何を見てたんだ?」

「君の決闘」

 箸の間のオキアミが皿に戻った。揚げてあるのに活きがいいね、と言いそうになって伊奈帆はやめる。このタイミングでジョークを言ったら怒るかな、ということくらいは彼の眉毛の角度でわかった。

「そうだったのか」

「うん。そう」

「じゃあ、君にはおおよそ全てわかっていたってことか」

「いや。わからなかった」

 伊奈帆は追加ドリンクを適当に二つ選ぶ。押した瞬間に、さっき頼んだフードが届いた。謎の豆。謎の麺。謎のピザ。ビビッドな色彩と未来的な器で、名称から味が確定できないことをスルーすれば、香りとボリュームはエキゾチックで悪くない。

 伊奈帆は八等分されたピザの一片をアクリル製の取り皿に置いた。

「スレイン・トロイヤードの目的」

 不正確な二等辺三角形の鋭角部分をかじると、山椒が鼻から抜ける。甘辛いタレは、鰻の蒲焼に似ている。

「それだけは、たとえ月面基地の入航ランプの点滅感覚すら見えても、わからなかった」

 何のために戦い、何を守ろうとしていたのか。

 ことん、とグラスの底が机に接する音がした。スレインが自身の両肘を抱えるように背を丸め、彼の重心が前になる。

「今なら、わかるのか?」

「少しはね」

 伊奈帆は、新しい取り皿にピザを二片取り分け、机の向こうに差し出し置く。

「君の奥さんから、手紙を預けてもらえるくらいには。今の僕は君の近くにいると思うよ」

 スレインは、ピザの一片を持ち上げた。大口で齧り、咀嚼。嚥下。

「そうかもしれないな」

「返事は?預かるよ」

「紙がない」

「売店で買える。ペンとインクも」

 スレインは二口で1ピースを食べきって、ビールを飲む。喉仏が三度上下。

「いつ出立?」

「明後日の警備が終わって、その日のうちに」

「じゃあ、式典後にステーションで待ち合わせよう。何番線?」

「3番線」

 追加ドリンクが届く。“ブルームーン“が二つ。地球でも市販しているロングセラーのビール瓶。伊奈帆が自分の分を持ち上げると、スレインが腕を伸ばしカチンと自分の瓶の口を当てた。

「式花の搬入は?」

「明日の昼頃」

「ばったり会うかもね」

「? 君の配置は遠いんだろう」

「僕じゃないよ」

 スレインは数度瞬き、やがて大きく目を見開いた。瓶ビールを、コップに注がずにそのまま口をつけ飲み出した。ラッパ飲みってやつだね、と伊奈帆は言いそうになりまた口を噤む。

 スレインはごとんと瓶を机に置いた。左右に首を振り、髪の先が室内灯を照り返し、不思議な色にちらちら光る。

「そんな夢みたいなこと」

「夢でもいいんじゃない?」

 伊奈帆はコップに“ブルームーン”をこぽこぽ注ぐ。光るわけでも、不思議な色でもなんでもない黄金色に、もくもくと泡が立ち上る。

「少なくとも、君の花はその手に届くよ」

 上目遣いでそっと見ると、スレインは見開いた双眸を瞼のふちに一周させた。テーブル上の指先が、とん、とん、とリズムを刻む。

「それなら、棘を取ってさし上げないといけないな」

 伊奈帆は右目をぱちりと瞬き肩をすくめる。

「そういうところなんだよね」

「何がだ?」

「なんでもないよ」

 “ブルームーン”をくぴりと含む。どこで飲んでもビールは苦いな、と伊奈帆は思った。

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