▽A rose is a rose is a rose.-Gert Stein△
- μ
- 5月19日
- 読了時間: 20分
更新日:6月15日
薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である。
薔薇の花が薔薇であり、薔薇の棘が薔薇である。
薔薇の根が薔薇であるように、それ以外に薔薇の本質は存在しない。
A rose is a rose is a rose.-Gertrude Stein
First night
伊奈帆は椅子に座っている。重くて頑丈な、座り心地の固すぎるこの椅子は、この二年ほどで慣れ親しんだものだ。視線を落とすと、これも見慣れた無機質なテーブル。その上のチェス盤。駒は進んでいない。
いつもの面会室だ。伊奈帆がここにいる目的は、一つしかない。
当然そこには彼がいるはず。伊奈帆はチェス盤から視線をさらに前方へ向ける。
いた。いたが。
「これは夢?」
目視できるものがあまりにもおかしかったので、そう声に出してしまった。言ってから、やはり夢であるらしい、と伊奈帆は合点する。夢の中で夢に気づくのは、なんとも変な感覚だ。
「どうしたの。その腕」
夢なのだから、聞いても無駄だと知っているが一応聞いてみる。返事はなかった。聞こえてはいるようで、項垂れていた頭が持ち上がった。いつもの通り、顔色が悪く隈がある。つい先日見た顔と同じだ。夢なのに、そんなところは妙に現実味があって、それもそら恐ろしい。
「スレイン」
視線が交わされた。もの言いたげな瞳だ。口は拘束されているわけでもないが、彼の意志で自然に閉じられて何も語らない。足を投げ出して気だるげに座っている。少し丸まった背が、背もたれに体重を預けてなんだか痛そうだ。まあ、それはいい。しかし、その腕が。肩から先にあるはずの腕が。
凝視する伊奈帆の瞳の中で、青白い唇が小さく動いた。自分は彼の口をこんなに鮮明に覚えているものだろうか、と意外だが今は場違いなことに気づく。息を吸って、そして。
「…界塚」
声がした。名前を呼んだ。何も言えず、しばらく見ていた。ああ、と手を伸ばす。そして。
そして目が覚めた。伊奈帆は暗闇の中見知った自分の部屋の天井を見て、大きく息を吐く。額に触れると、びっしょりと汗をかいていた。
「調子は」
その数日後、地下の面会室で差し向かいに座るスレインに、伊奈帆は聞いた。
「…」
スレインは何も言わないが、落とした視線が少しだけ横に流れたのがわかった。伊奈帆は、その筋張った華奢な腕が蛍光灯の光を受けどこか病的に浮かび上がるさまを、ほっとした気持ちで見つめた。ちゃんとある。動きもする。触ると、多分体温を感じられるだろう。
「寝不足?無理もないけど」
チェスの駒を並べながら、できるだけ軽い声音で話しかける。スレインは返事をしない。それはいつものことだ。しかし今日は伊奈帆の方がいつもの通りではない。この間の夢のせいか、ざわめく胸中に口調が早くなっていた。スレインは聞こえているのだろうが、反応を返そうとしない。
「…夢を見たよ」
駒を動かそうとしない伊奈帆を気にしていたのか、言うとスレインが微かに首を上げた。伊奈帆は顔をのぞき込もうとするが、目が合うことはなかった。しかし、気配はこちらを向いている。聞いてはいるようだ。
「君が出てきた。嫌な夢だったよ」
「…どんな?」
珍しく、スレインが返事をした。言っていいものかどうか一瞬だけ迷ったが、また返事をしてくれるかもしれない、と期待して続ける。テーブルの上で組んだ両手に力が入った。
「うん。君の腕がさ」
伊奈帆は自身の左肩に、右手の小指側の側面を当てた。スレインは、今度は目の端でそれを捉えた。戻る視線がかち合う。
「ないんだ」
想像したのか、眉根を寄せるスレインに、伊奈帆は夢だよ、と笑いかける。うまく笑えたと思う。
「傷口から血が流れ出ていて、床は一面真っ赤なんだ」
夢の光景を想起する。薄暗い面会室に、椅子とテーブル、チェス盤。二人だけだ。静かに座っている。床は赤く濡れている。スレインは動かない。伊奈帆も動かない。
「それで、肩からたくさん、植物の蔓が伸びていて。何本くらいだろう。五、六十本くらいだろうか。ああ、棘があった。その蔓が、体中に巻き付いているんだよ」
伸びた蔓は、床の上へ生き物のように這い出している。スレインの体に巻き付いて、ぎり、ぎり、と締めあげ、剥き出しの首は棘で傷ついて皮膚が破れ血が流れ出た。少しずつ増殖する蔓は、しまいにはスレインの体から顔からを覆いつくしてしまう。伊奈帆が我に返りようやく手を伸ばすと、その棘で指を切るのだ。痛みで目が覚めた。
「…それは」
チェス盤の向こうから、やっと聞こえるという声の言葉が届いた。スレインは、明後日の方を向いて独り言のように続けた。
「きっと、茨だ。薔薇の」
「…ああ、薔薇。そうかもしれないな」
薔薇か。確かに、植物なら花を咲かせるかもしれない。スレインに、薔薇はよく似合うだろう。
「ただの夢だろう」
ぼそりと言った言葉に、どこか気遣うような色が混ざっているような気がした。少し、自分は元気になったようだ。伊奈帆はうん、と頷く。
「そうだね」
もう少し彼の声を聞いていたかったが、もう話すことはないようだった。スレインは息を潜めてじっとしている。今日はここまでだ。伊奈帆は名残惜しく立ち上がる。
「また来るよ」
返事はなかったが、背中に視線を感じて伊奈帆はゆっくりとドアノブから手を離した。
Second night
自分は夢を見ている。それがわかった。
ふわふわと、ぐらぐらと、思考が定まらないのは嫌な感じだ。醒めてほしいが、自分で醒めることができないのが夢のいけないところだと思う。
やはりいつもの面会室だ。後ろには幾重にもロックのかかった頑丈な扉と、ガラス張りの壁。その向こうには誰もいないし何もない。伊奈帆は椅子に座っている。向かいには見慣れた囚人。彼の身に降りかかるであろう状況は予想できたので、伊奈帆はほんの少し眉を顰めるだけで目の前の惨状を受け止めた。テーブルですべては見えないが、数歩分の距離にはやはり、異様な光景が広がっている。体に巻き付く蔓は蠢きながら本数を増やして、一つの大きな生き物のようにスレインを飲み込もうとしていた。足をずらすと、靴裏に、ぴちゃぴちゃとした感触があった。覚悟を決めて、伊奈帆はテーブルの下をのぞき込む。やはり。
「足、が」
足がなかった。太ももの付け根の一番上のところから。その赤い肉から、やはり蔓が…茨が、生き物のように幾筋も伸び、スレインを覆い、椅子の足に絡まり伝い、テーブルの足にも上りつつあった。もしもこのまま時間が流れたら、この茨は机を追いつくし、こちらまで伸びてくるかもしれない、と思った。
「スレイン」
呼ぶと、閉じられていた瞼が持ち上がった。緩慢な動きに反して、現れた瞳の色は鋭く深かった。億劫そうに唇が開く。整然と並んだ白い歯の間から、赤い舌が見えた。その赤が、網膜に焼き付く。血よりも赤く見えた。
「…界塚、」
目が覚めた。飛び出んばかりにかっと見開いた目を閉じて、伊奈帆は大きく息を吐く。両手で顔を覆った。これは夢だ。夢なのだ。しかし。
スレインは、名前の後に、何を言おうとしたのだろう。
「調子は」
せっかちにそう聞いて面会室の椅子に座るなり、伊奈帆は屈んでテーブルの下をのぞき込んだ。そして息を吐く。良かった、ちゃんとある。薄っぺらい水色の囚人服の裾から、白い踝が伸びていた。肉の少ない足が、居心地悪そうにもじもじと動いた。案外初心な仕草に、波だった心が少し落ち着き、気分が良くなる。
「…何の真似だ」
伊奈帆は体を起こし、座りなおす。スレインが、不機嫌そうに伊奈帆を見ていた。不機嫌はいつものことだが、真正面からこちらを見ることはあまりない。目が合う嬉しさに、勢いよく頷く。
「また、夢を見たんだ」
スレインがため息をついた。
「…また、夢の話か」
伊奈帆は夢の光景を脳裏に描きながら言葉を探した。
「今度は、足がなかった」
この間の話を思い出したのだろう。スレインは思い切り嫌そうな顔をした。確かに、夢の中で自分の体が切り取られるのは、薄気味悪いだろう。一瞬、スレインの目が冷たく光ったが、閉じて開けるとその光は鈍くなっていた。
「サディストなのか?」
「わからない。でも僕は、嫌な気持ちでそれを見ている」
静寂が訪れた。視線は交わされたままだ。こんなに長くお互いの目を見るのは初めてのことだった。緊張を感じるが、どこか心地よい。冬を連想させるような翠はきれいだと思った。静かな瞳を見つめていると、さっきその瞳に宿った、稲妻のような光が惜しく思われた。しばらく見ていたら、スレインの目が三日月のように細くなった。目で笑ったのかもしれない。
「…本当に、切り落としてもいいんだぞ」
手も足も。そう言う声は、冗談めかしているが別にそうなってもいい、という響きを含んでいた。目がもう一度閃光を宿した。伊奈帆は唾を飲みこむ。ごくり、と喉が鳴った。
「悪い冗談だ」
立ち上がると、スレインは今日に限って無遠慮に伊奈帆の動作を目で追っている。少し居心地が悪いが、自分のことを認識しているのは悪くない、と思う。
「また、来るよ」
スレインは返事をしなかったが、どこか蹴とばしたらしくカン、と硬質な音が聞こえた。
あれは、警告だ。
次の夢が恐ろしい。
Third night
また、この夢だ。
夢は潜在意識が具現するというけれど、だとすれば自分はどういう感情を彼に抱いているのだろうか。
伊奈帆は恐る恐る視線を上げる。今回テーブルはない。自分は、椅子に座っている。スレインも、椅子に座っている。全身が見える。深く首を垂れて、背を丸めて座っている。手はある。足はある。少しほっとして、名前を呼ぶ。
「スレイン」
金の髪だけが見えていた頭が動いた。ゆっくり、頭頂部から額、目、鼻という順番に持ち上がってくる。伊奈帆は思わず悲鳴をあげそうになったが、夢であることを理解していたので唇を噛みしめて声を飲み込んだ。
「…口か」
鼻から下が、メジャースプーンで抉られた砂糖のようになくなっている。剥き出しの赤い肉と白い骨は、グロテスクな様相を呈していた。夢に出そうだ、と思い、これが夢だった、と一人でどうでもよいことを考える。よく見ると、スレインの服は血の赤で真っ赤に染まりつつあった。傷口から、たらたらと血が流れ落ちている。ずっと見ていると、骨に肉がひっついた傷口がぞわぞわと嫌な感じに震えて、血を纏った茨が伸び出してきた。首に巻き付き、体を伝う。
何も言えないスレインは、背筋を伸ばしてじっと伊奈帆を見据えていた。瞳を見つめると、その色は暗く深く燃えていた。炎のようでもあり、氷のようでもあった。どんどん大きくなる。近づいている。目の中に吸い込まれる。暗闇だ。ああ、ここは。
飛び起きた。はあはあと喘ぐ肺をどんと叩いて、伊奈帆は蹲った。
「調子は」
「…ああ」
夢は夢だと分かってはいるものの、スレインがこうして生きた人間として、肉体を損なわれずに現れたことに安堵する。うっかり、ほう、と息を吐いてしまった。
「ああ、返事をしてくれた」
「…どうかしたか」
心配そうな声音だ。これまで、つっけんどんな声ばかり聞いていたから気づかなかった。こいつ、こんな声をしていたのか。よく響く、柔らかくて優しい声だった。
「うん」
今日の自分は素直だ、と伊奈帆は思う。夢のせいか、声のせいか。もしかして目のせいかもしれない。瞳の光は穏やかで、温かさを宿していた。炎や氷のようだと思った瞳だが、今日は日溜りのように感じた。さっき聞いた声のせいだろう。
「また、夢を見たのか」
「うん」
「ただの夢だろう」
「うん。…今日は、やさしいね」
伊奈帆が指摘すると、スレインは不細工に表情を歪ませた。口をよくもそんなにひん曲げることができるものだ。そして、息も漏らさずふっ、と笑った。その表情は、あか抜けていてちょっと格好いい。芝居がかった動作で、両腕を広げる。
「僕はここにいるぞ。御覧の通り、ちゃんと生きている」
そうだ。腕もある。足もある。口もある。大丈夫だ。これが現実だ。
「本当に、今日はやさしいね」
スレインは片方の口の端を大きく上げた。目は、ほっとしたように伊奈帆を見ていた。その色に親しみを感じたのは、気のせいではないだろう。
伊奈帆は理解した。
手も、足も、口も。あんな場所にいても、どれほどの力を持っていることか。かつて、地球人でありながら火星騎士を束ねた敵将の力量を、伊奈帆はまざまざと理解した。
カタフラクトを駆り、引き金を引く。その手は、一度戦場を離れると、情感豊かに翻り、たおやかに花を育て愛する者の手の乗せる。
軽々に境界線を飛び越える。地球、火星、月、宇宙。どこへでもいくことができる足。
聞くものの心を躍らせ、沈めさせ、高揚させ、歓喜させる声。温度を持った声は、冷たくも、熱くも、思うままに空気を震えさせる。
あれは棘なのだ。夢の彼は、棘を抜かれた姿なのだ。身を守る棘を纏っているうちは、彼は決して光を浴びることはない。人に、世界に、その棘はあまりにも危険なのだ。心を奪い、命を賭けさせ、世界を揺るがす棘なのだ。
全ての棘を伊奈帆へ向けて、絞り出すように投げられた言葉を思い返す。
『どうして僕を助けた』
その時の刺すような空気を、少し懐かしんだ。
伊奈帆は決断した。
Fourth night
この夢には、終わりはあるのだろうか。
「目か」
いつ来るだろう、と思っていた。待っていたのかもしれない。伊奈帆の視線の先には、両眼から血をだらだらと流し血に染まる囚人が一人。体を投げ出して、手も足もだらりと力なく垂れている。
何も言わない。動かない。
「皮肉だな」
眼窩から、またあれが出てきた。蔓がスレインの顔中に巻き付く。そして首へ。胸へ。腹へ。繭のように覆いつくしていく。
「界塚」
声が聞こえて背が震えた。じっと、蔓が幾重にも巻き付いた口元を凝視する。
「もう」
放っておけ。そう聞こえた。
「いやだ」
暗い天井を見つめ、伊奈帆は言った。大丈夫だ。きっとうまくいく。
「調子は」
「…大丈夫だ」
「お前の方が、大丈夫じゃないように見える」
「寝不足だよ」
「また夢か…。疲れてるんじゃないのか」
「まあね」
「チェックメイト」
「…ああ」
スレインは、不思議そうな顔をしている。こめかみに指を当てて、何か考え込んでいるようだ。
ぼきり、とどこかで何かがむしられる音がした。
「どうしたの」
「…何でもない。お前の勝ちだ」
「また来るよ」
「ああ」
一つ目の棘を、仕舞いこむ。
[newpage]
報告書
・□ミリグラム投与。
・自覚症状はなし。
連絡事項
・投与量を増やしますか。
[newpage]
Fifth night
これは、想像していなかった。
「…心臓だなんて」
胸の真ん中に、風穴が空いていた。ぽっかり空いた穴の真ん中で、ペンダントが赤く光って揺れていた。
「界塚」
夢なのは分かっているが、体に穴をあけてよく喋る。伊奈帆は立ち上がった。夢の中で立ち上がったのは初めてだった。スレインの目が、伊奈帆の動きを追った。
「もう、放っておけ」
「前にも聞いた。僕の自由だ」
「馬鹿だな。いいか」
目が細くなった。
「水はいらない。枯れさせてくれ」
穴から、蔓が伸びてくる。スレインの体を拘束する蔓は、いつものようにぎりぎりと全身を締めあげつつある。
「この茨は」
スレインの口が蔓に覆われる。その何本かが、迷うように揺れ伊奈帆の方へ伸びてきた。
「次にお前を飲み込むぞ」
「やってみろ」
暗い天井にかざした手を握りしめ、伊奈帆は目を閉じた。
「調子は」
「…お前の方こそ、調子はどうだ」
リラックスした表情だ。以前には、考えられなかったと言っていい。
「立場が逆になったみたいだ」
「…夢は、どうだった?」
少しの躊躇いが胸をよぎる。
「心臓がなかった」
「ついに死んだか」
「いや…」
「君は、僕を見て笑った」
「は、気味の悪い話だ」
自嘲気味で、嫌な表情だったが、彼は初めて声を出して笑った。
「ねえ、聞いていいかな」
「何だ」
「君は死にたいのか?」
スレインは目を大きく見開いて、しばらく静止した。口も小さく開いている。そうして、両肘をテーブルについて両手の指でこめかみを押した。何度も、何度も。
「…わからない」
絞り出すように言った声は、途方に暮れていた。迷子になって、夜になった子どものようだった。
「僕は、君が生きることを望んでいる」
「そうか」
「また、来るよ」
[newpage]
報告書
・□ミリグラム投与。
・眠そうに目を擦る。
・ぼうっと壁を見る。
・昼食。食欲がないのか手をつけない。看守が促し、少量を口にする。
・眠れないのか、何度も寝返りをうつ。
・独り言の頻度が高くなる。
連絡事項
・投与量を増やしますか。
[newpage]
棘なのだ。棘を抜く。
宇宙を駆ける鳥を操るその両腕を。
どこへなりとも行くことのできる両足を。
良く通り、心の隙間に入り込むその声を。
何よりも雄弁で、温度を変える瞳を。
その胸に抱く、恐ろしいほどの純粋な愛と後悔を。
誇りを証明する肌を。瞳の輝きを時に隠し、額縁のように縁どる睫毛を。地球の音も宇宙の音も閉じ込めた耳を。落とされるはずだった首を。
それは棘だ。たった一輪だけの美しい薔薇が、身を守るための棘だ。根を張り、茨を伸ばし、咲き誇った青い薔薇。守るべきものを失い、薔薇は自ら散ろうとした。それを手折ったのは自分だ。今では、光の当たらない暗闇で枯れるを待っている。
放っておけば、枯れるだろう。からからにかわいて、花びらが落ち、棘だけが残った茎も硬さを失い腐っていく。そのための牢獄だ。
伊奈帆はたった一人、水をあげに行く。まだ枯れない。まだ、枯れていない。枯れさせてなるものか。しかし、水だけでは花は生きられない。光がなければ。土がなければ。
棘なのだ。棘が彼を縛るのだ。世界は、その棘の脅威を恐れている。棘のついた薔薇の魔性を恐れている。美しくて、手を伸ばす。刺される傷みすら喜びとなる。だから暗いところに閉じ込めて、根を切り、葉をもぐ。棘と花を、誰の目にも見えないように。気づかれないように。そっと枯らす。
ならば、棘を抜いてしまえばいい。根もなく、葉もなく、棘もない。美しく飾られるだけの花ならば、再び光にまみえることもできるだろう。
一つ一つ、抜いていく。もう、大丈夫だ。この花は、もう誰も傷つけない。触っても大丈夫だ。ほら、早く日をあてないと、枯れてしまう。水だけでは、花は枯れてしまう。枯れる前に、光の中へ。腐る前に、土を与えて。いいんだ。もう、身を守る必要も、戦う必要も、失う必要もないのだから。
僕がずっと、水をあげるから。
「やあ」
「ああ」
「調子は」
「別に」
スレインはぼんやりとした顔で伊奈帆を見ている。こんな気の抜けたような顔を見るのは初めてのことだ。
「チェスでもしようか」
「…いや、いい」
反応も鈍い。ぼうっとしている。
「本でも読むかい」
「いや…」
スレインは、くしゃりと前髪をかき上げた。そのまま、額を押さえて目を閉じる。
「…なんだか、よく分からなくて」
「どういうこと?」
「あまり、物事が考えられなくなった気がする。時々、どうしてここにいるのか、分からなくなる」
忘れてはいけないことを、たくさん忘れてしまった気がする。
「わからないの?」
「今はわかる」
「毎日、同じことの繰り返しだから。環境のせいかもしれないね」
「そうだな」
「今日は、鳥の話でもしよう」
「へえ」
[newpage]
報告書
・□ミリグラム投与。
・ベッドから起き上がれない。
・看守に話しかける。日付と自分の名を確認する。
・独り言がさらに増える。
連絡事項
・隔離しますか。
[newpage]
Twelfth night
「今日は特にひどいな」
伊奈帆は夢の中でそう独り言ちた。目の前で繰り広げられるスプラッタショーには慣れてきたが、これは起きた後しばらくは肉を食べられそうもない。
「界塚」
血まみれの顔がこちらを向いている。くぐもった声がした。口を見て、鼻を見て、目を見る。どれもさらに上部から流れる血で赤い。
「頭が開いている。どんな気分?」
額から頭頂部までが、ぱっくり切り取られている。上からのぞき込みたくはないな、と座ったまま眺める。
「離れろ」
頭頂から、蔓が伸びてきた。スレインの体に巻き付くよりも先に、伊奈帆の方へ伸びてくる。伊奈帆は、その蔓を数本まとめて掴んだ。ぎり、と拳を握りしめる。棘で破れた皮膚から血が滴った。
「いやだ」
棘は小さくなっていた。太さも、随分細い。動きも緩やかだ。
「僕は、君とずっと一緒にいる」
蔓は静止して、スレインは何かを呟いたようだが聞き取れなかった。
「調子はどう?」
「ああ…」
「その頭は?」
「別に…」
「錯乱して、暴れたって?」
知っているんじゃないか、という目でスレインは伊奈帆を睨んだ。
「どうして?」
「最近、何が何だかわからない」
「どういうこと?」
「僕は、一体どうして、ここにいる?」
「お前は、何者だ?」
「僕がわからない?」
スレインはイライラと首を振った。
「界塚伊奈帆。地球連合軍少尉。それは知っている。どうして、僕に会いに来る?僕は、どうしてここにいる?僕は、何をしたんだ?」
「知っているんだろう。界塚伊奈帆」
「知っている」
「頼む。教えてくれ。おかしくなりそうだ」
「…もしも」
「君がおかしくなっても、僕は君に会いに来るよ」
瞳の色が絶望に染まった。
「また来るよ。スレイン・トロイヤード」
彼はあんぐりと口を開けて、伊奈帆を見つめ返した。名前を忘れてしまっていたのかもしれない。
[newpage]
報告書
・□ミリグラム投与。
・記憶障害が認められる。
・暴れるので、拘束衣を着用。
連絡事項
・隔離しますか。
[newpage]
24th night
「懲りないやつだ」
夢の中だ。飽きるほど見た夢の中で、また伊奈帆はスレインと向かい合う。
「どこから、喋っているの?」
伊奈帆は、自分の疑問は当然だと認識しながら、スレインを見る。椅子に座っている。今日は、少し猫背だがそんなに悪い姿勢じゃない。足は床に下りているし、腕は足の間で軽く握られている。服は赤くない。
「頭がないよ」
首の上には、何もなかった。血も出ていない。このまま勢いよく倒れたら、ペンダントが転がってしまうだろう、と想像する。試してみようか。どうせ夢だ。
「お前にやる」
伊奈帆が立ち上がる前に顔のないスレインがそう言って、首からペンダントをすっぽり抜いた。両腕をまっすぐに伸ばしている。近づいて、手のひらから摘み上げる。
「どうして?」
「知らない」
スレインの首から、蔓が伸びてきた。たくさん。
「ああ、そうか」
蔓は体に巻き付くことなく、肉から数センチのところで動きを止めた。先端から、蔓とは違う色彩が次々現れ増えていく。
「いいよ。僕がずっと覚えている。君の願いも思い出も。ずっと、一緒にいよう」
首の上に咲き乱れる青い薔薇に、唇を寄せた。
[newpage]
報告書
・記憶障害が認められる。
・人格の再形成がなされた模様。
連絡事項
・投与を継続しますか。
・隔離しますか。
返信
・継続すること。
・こちらから書面で連絡する。
[newpage]
玄関の扉を開けると、パタパタとせわしない足音が近づいてきた。
「伊奈帆」
「ただいま。いい匂い」
「おかえりなさい」
よく笑うようになった。柔らかい喋り方と、控えめな物腰。少し要領が悪くて、不器用なところがある。かつては想像もしなかった姿だ。しかし本来の彼は、きっとそうなんだろう。
かつてカタフラクトの操縦桿を握った白い手には、家事に失敗したのか絆創膏がいくつか貼られている。地を蹴り天を駆け、どこへなりとも着地できた足先は裸足の足先にもこもことしたスリッパをひっかけていた。口元は遠慮がちな微笑みを浮かべていて、声は優しく甘い。極地の湖面のような色彩の瞳は、穏やかに凪いでいた。愛らしい微笑みを浮かべる顔に、笑い返す。
「 」
「君は今、幸せ?」
彼とはもう喧嘩もしないし、言い争いもしない。チェスもしない。スレインは決して伊奈帆の機嫌を損ねるようなことはしないし、伊奈帆の意向を驚くほど敏感に汲み取る。いつも居心地よく整えられた空間でのぬるま湯のような生活は、心地よいし穏やかだ。平和な世界。当たり前の日常。彼の明るい笑顔を見ていると、ふとした瞬間、幸せかもしれないとも思う。
あの夢も、もう見ない。
棘を抜いた薔薇は、それだけで咲くことはできない。降ろす根も、光を受ける葉も、身を守る棘も失った薔薇は、水の満ちた花瓶の中でしか生きられない。それでも、ただ枯れるよりは、ずっとその方がいい。今でもそう思っている。伊奈帆は後悔していない。もう一度運命を繰り返しても、同じ行動を選択するだろう。
しかし、全ての棘を抜き去った後になって思うのだ。いや、本当は、もっと前から気付いていたのかもしれない。最初の棘を折ろうと力をこめた瞬間に。それでもなお、次の棘に手を伸ばした。抜き取るために。その度、思った。
棘は花の一部であって花ではない。彼の一部であって、彼そのものではない。だから抜いた。抜いても、花は枯れなかった。光を浴びて、花は再び開き香った。花のある世界はきれいだ。枯れてしまうより、咲いている方がずっといい。
しかし、胸をよぎる感情がある。
戦場での高揚。互角の戦い。先の先まで読み合う思考。射殺さんばかりに鋭く光る眼差しと、敵意を込めて呼ぶ自分の名。危ういほどに一途な生き方と、純粋な愛。彼を彼たらしめたすべての脅威。
全ては、今はもうない。抜いてしまった。残ったのは、優しく美しく、世界に顧みられることのない名無しの青年。伊奈帆は彼をスレインと呼ぶが、その意味とそこへ込められた感情をもう彼は知らない。それでもいい。
いつも伊奈帆は、自らを刺した棘を思い、失われた名を呼ぶ。
そうして、思うのだ。
その棘をこそ、愛していたのだと。
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