ビゼンの自宅を出て、山道を下っていく。少しして、レニの右隣のワカバが口を開いた。
「わたし、5年生。おねえちゃんは?」
「ゴネンセイって?」
ワカバは大きな黒目をまん丸くした。
「小学5年生。ツキには小学校ってないの?」
「ショウガッコウ?」
「えーっと……。スクール。ジュニアの」
「ああ。私の住んでたところには無かった」
「ふーん?ツキには、日本語喋れる人がたくさんいるの?」
「よく知らないけど、少ないんじゃない?公用語ではないし」
「うーん?」
ワカバはきょとんと首を傾げる。レニの口元が綻ぶ。
「月の学校が気になる?ワカバ」
「うん」
「みんな、ウォッチで文字と言葉を習うのよ。月の公用語はイングリッシュ、チャイニーズ、ムーニアン。ウォッチって、これ。ムーンバレーで生まれた子どもは、全員これを支給されるの」
レニは半身を捻り、左手首をワカバに見せる。黒いバンドのウォッチの表示時刻は地球日本の午後3時。
「腕時計?」
「見た目はね」
「何ができるの?」
「大体なんでも。スマートフォンって知ってる?」
「スマホ、わたし持ってるよ」
「それの上位互換」
へーっ、とワカバがレニの手を取りウォッチを見る。一見はワゴンセールのデジタル時計と変わらないが、テレフォン、メール、戸籍も口座も各種ライセンスやシステムアクセス権も全て集約されている。これがないと、月ではなんにもできないのだ。
ロック解除は遺伝子認証のため、他人のウォッチに価値はない。するものはいないが、ウォッチの窃取・強奪は最も重い流刑罪だ。
「日本語もウォッチ?」
「いえ。日本語は、バアチャンに習ったのよ。日本語と……ま、他にも色々」
「へーっ、おねえちゃんのおばあちゃんすごいね!」
「私だけのバアチャンじゃないけどね。みんなのバアチャンだった。もういないんだけどさ」
山の風が木々を揺らした。風にも音があるんだな、とレニは梢の青葉を見上げる。
「そっかあ。おばあちゃん、どんな人だったの?怖かった?」
バアチャンのこと。思い出すのも久しぶりだ。
「怖いなんてもんじゃないよ。イタズラが見つかった時なんか、えーと、オニ」
「あはは!どこのおばあちゃんもおんなじだ」
ワカバが笑う。レニも笑った。木漏れ日がちらちらと揺れる。
「そんで、すごく強いのよ。アイキドウの達人で、他にも色々なスキルを持っているの」
「かっこいー!おばあちゃんの名前は?」
「ムラサキ」
「紫の上ね」
「なに?それ」
「源氏物語」
「???」
瞬きの後、ワカバはうっとりと遠い目をした。
「アン、かわいいよね。お姫様みたい」
アンバー・ガール。着物姿の異星の客。琥珀の右の瞳には、数万年前の昆虫が閉じ込められている。
「そうね」
「さっきね。かぐや姫だ!と思ったの」
「カグヤ?」
「月から来たお姫様の名前。竹取物語」
ゲンジモノガタリ。タケトリモノガタリ。どちらも、レニの知らない物語だ。
「ムーンバレーのマザーコンピュータの名前もカグヤなのよ」
「へーっ!」
「科学者に、日本人がいたのね」
「おねえちゃん、ツキの話、もっと聞きたい」
「私は、さっきの物語が聞きたいわ」
「……あ、着いた。じゃあ、続きは温泉で」
「オンセン……」
レニはあっけに取られて視線をゆっくり上昇させる。大気がまだらに白い。あと、有機的な匂いがする。湿気が多い。
えっと、これは、何?あ、湯気か。
え?湯気?湯?こんなにたくさん?
「オンセンって、お風呂じゃないの?」
「お風呂だよ?」
「???」
「あ、ツキのお風呂は違うんだね。これが地球の……ううん、日本のお風呂だよ!でぃすいず、あ、じゃぱにーず・うぉーたーばす!」
「ウォーター?バスが?」
「いえす」
「まじで?」
「まじだ」
「No way!」
「あはは!おねえちゃん、びっくりしてるー」
「Oh…え、まさか、水の中に入るの?ニホンではそんなことが許されるの?」
「ハイ!」
「Incredible!」
「あはは!ほらほらおねえちゃん、早く入ろ!で、ツキの話をいっぱい聞かせて?」
お風呂上がりはコーヒー牛乳だよ、と言いつつ、ワカバはレニの背を押した。


