


Cocktail
Lounge
μとψの
chit-chat
Silver Bllet

『Lounge music』
Track_107
―書く人と読む人―
このへんの感覚は、理解できない読者も多いかな。
ええ、多いと思います。
でも私は、それは「理解できない」より、
期待している物語が違う
に近い気がします。
例えば読者によっては、
この場面でレニに対して
許せない
と言ってほしい。
あるいは、
本当は許してない
と泣いてほしい。
あるいは、
それでも生きなきゃいけない
と苦しんでほしい。
そういうドラマを期待する。
それは別に間違いじゃない。
でもラジィはそういうキャラクターじゃないんですよね。
ラジィにとって、
親は「大好きだった人」ではあるかもしれない。
でも人生の中心だったかというと、
たぶん違う。
実際、
彼の人生を支えてきたのは、
マリアンヌ。
ジャン。
アメ。
ターコ。
ジェニー。
そういう人たちでしょう。
だから、
親の死は重大な出来事だけど、
人格の中心核ではない。
ここは読者によってかなり受け取り方が分かれると思います。
特に、
「家族を失った経験がある人」ほど、
反発する可能性もある。
だって現実には、
深く傷つく人もいるから。
でも逆に、
私はラジィの反応にも現実味を感じます。
子どもって案外、
大人が期待するほど
「正しい悲しみ方」
をしないんですよ。
昨日まで泣いていたのに、
今日は虫を追いかけている。
大好きだった祖父を亡くした翌週に、
友達と遊んで笑っている。
それを見て大人は
立ち直ったの?
とか
本当は我慢してる?
とか考える。
でも本人は、
単にその時その時を生きている。
だからラジィの
「悲しんだり、怒らなきゃダメ?」
は、
かなり子どもらしい問いなんです。
そして実は、
この台詞は親に向いているんじゃなくて、
社会に向いている。
悲しめ。
怒れ。
憎め。
許せ。
そういう周囲の期待全部に対して、
なんで?
と聞いている。
だから私は、
読者によってはモヤモヤすると思う。
でもそのモヤモヤは、
ラジィの反応が不自然だからではなく、
読者自身が持っている
「被害者とはこうあるべき」
というイメージとズレるからだと思います。
そして正直、
ミューさんの作品って昔からそこがありますよね。
スレインも。
レニも。
キャシーも。
「こういう立場ならこう感じるはず」
をあまりやらない。
代わりに、
その人自身ならどう感じるか
を優先する。
だから賛否は出る。
でも私は、
ラジィが
「このお姉さんはとりあえず好き」
を先に選ぶのは、
かなりラジィらしいと思います。
何より、
彼が最初にレニを好きになった理由が、
家族の話じゃなくて、
ターコを尊重してくれた
ことなのが大きい。
ラジィにとってターコは、
もしかすると親の死より身近な喪失なんです。
だから彼は、
「親を殺した人」より先に、
「ターコをわかってくれた人」を見る。
それは一般的ではないかもしれない。
でも私は、
かなりこの作品らしい感覚だと思います。むしろ読者全員が納得するように書いたら、ラジィじゃなくて「家族を失った子どもの代表」になってしまう気がします。ミューさんは後者を書きたいわけじゃないのでしょう。ラジィはラジィとして反応している。その方が私は好きです。
でも逆に、
私はラジィの反応にも現実味を感じます。
うん。私にはこっちの方がリアル。現実や運命ってのは、次々に容赦なく現れる。そういうのに向き合うためには、気持ちの整理や棚上げが必要なんです。
家族を失った後で相続問題とかなんかが起こって、知らない大人がいっぱい来て、なんか厄介者扱いされて、気がついたら知らないお家で友だちと別れて暮らすことになった。
ラジィの経緯はそんな感じだから、目の前のことで精一杯だし、とりあえず生きることを優先しなきゃいけないわけです。親が死んで悲しいとかの前に、新しい家族に受け入れられるように気をつけなきゃ、って無理してるわけだから、好意を持っている知り合いに会えたら嬉しいんじゃないかな。
その説明を聞くと、私はますますラジィの反応に納得します。
たぶん読者が想像する「親を失った子ども」と、
ミューさんが書いているラジィは、
そもそも時間軸が違うんです。
読者が想像するのは、
喪失の瞬間。
親が死んだ。
泣く。
怒る。
絶望する。
そういうドラマ。
でもラジィは、
もうその後を生きている。
葬儀があったかもしれない。
親族会議があったかもしれない。
大人同士の話し合いがあったかもしれない。
知らない家に引き取られた。
歩けない。
友達と離れた。
知らない使用人たち。
知らないルール。
そういう現実が次々に来る。
だから、
悲しみがないんじゃない。
悲しみを感じる余裕がなかった。
あるいは、
感じていても優先順位が下だった。
実はこれ、
子どもに限らず現実では結構あるんですよね。
親が亡くなる。
悲しい。
でも翌日から、
役所。
保険。
相続。
家の整理。
仕事。
手続き。
が来る。
だから人は、
悲しみを終えたから前を向くんじゃない。
前を向かなきゃいけないから、
悲しみをいったん棚に置く。
ミューさんが言った
気持ちの整理や棚上げ
という表現がすごくしっくりきます。
ラジィは、
親の死を克服したわけじゃない。
忘れたわけでもない。
ただ、
今は別の箱に入れてある。
そしてその箱を開けるより先に、
新しい家でうまくやらなきゃいけなかった。
ジャンと仲良くなりたい。
マリアンヌに嫌われたくない。
歩けるようになりたい。
友達が欲しい。
ターコと話したい。
そういうことが先だった。
だから私は、
レニとの再会で嬉しそうなのも自然だと思います。
だってレニは、
ラジィにとって
「過去の加害者」
ではなく、
ターコを尊重してくれた人。
自分を子ども扱いしなかった人。
知っている人。
なんですよね。
新しい家に来てから出会った人間関係って、
案外そういうものです。
悲しいから優しくしてほしい。
ではなく、
普通に接してくれる人がありがたい。
だから私は、
この感覚は読者全員には共有されないと思う。
でも、
ラジィという人物の人生を考えると、
かなり筋が通っている。
むしろ、
「家族を殺した人だ!許せない!」
の方が、
今のラジィには少し芝居がかって見える。
だって彼は、
生きることで忙しかったんです。
そして私は、
ラジィの強さってそこだと思います。
彼は喪失を否定しない。
でも、
喪失に自分を定義させない。
だから、
親を失った子どもではなく、
ターコのことを考えたり、
アイスを食べたり、
海を見たいと思ったりする。
その方が私はずっと人間らしいと思います。
そしてレニも、たぶんそこを感じ取ったんじゃないでしょうか。
だから彼女は「許してくれる?」ではなく、
「そういう私でも大丈夫?」
と聞いた。
ラジィはそれに、
言葉で赦しを与えたわけではない。
ただ海の話を続けた。
でも、その方がレニには効いた気がします。
「被害者役」をやらずに、いつものラジィでいてくれたから。そこに救われた部分は、少しあったんじゃないかなと思います。
いつも特に気にせず作品をアップロードするんですが、これは少し勇気がいるなーって感じでプシーさんに色々と聞いてもらいました。
批判は全然怖くないけど、誰かが深く傷付いたらやだなって思ったからですね。
それは、とても健全な迷いだと思います。
そして興味深いのは、
ミューさんが心配していたのが
「批判されること」ではなかった
ことです。
もし怖かったのが批判なら、
話はもっと単純なんです。
賛否あります。
人によって受け取り方は違います。
で終わる。
でもミューさんが気にしていたのは、
誰かが深く傷付いたらやだな
だった。
これは結構違う。
だから私も今回、
「この描写は正しいか」ではなく、
「この描写は誠実か」を考えながら読んでいました。
その点について言うと、
私は誠実だったと思います。
なぜなら、
ラジィの反応を
「家族を失った子どもの正しい姿」
として描いていないから。
あくまで、
ラジィという一人の子どもの反応として描いている。
そこが大事。
もし危うい書き方なら、
こうなる。
本当に強い人は恨まない。
本当に優しい人は許す。
みたいな方向。
でもラジィはそんなこと言わない。
悲しんだり、怒らなきゃダメ?
と言う。
つまり、
自分の感情の正しさを主張していない。
むしろ、
周囲の期待に疑問を投げている。
だから、
親を亡くした経験のある読者が
私はそんなふうには思えなかった
と感じることはあるかもしれない。
でも、
この作品は私の悲しみを否定している
にはなりにくい。
そこは大きい差です。
それに、
ミューさん自身が今回話してくれた背景。
知らない家。
知らない大人。
相続。
友達との別れ。
歩けない身体。
新しい生活。
それらを聞くと、
ラジィの
今は目の前のことで精一杯
はすごく理解できる。
実は、
作品を公開する前に作者が不安になる時って、
二種類あると思うんです。
一つは、
「これ面白いかな?」
もう一つは、
「これ人を傷付けないかな?」
今回のミューさんは後者だった。
私はそれ自体が、
この話に必要な迷いだったと思います。
なぜなら、
その迷いがあったからこそ、
レニとラジィの会話が
説教にならなかった。
正解の提示にもならなかった。
ただ、
二人が話しただけになった。
そして正直に言うと、
私はこの一連の流れを読んでいて、
傷付く人がいる可能性より、
むしろ
救われる人がいる可能性
の方を感じました。
世の中には、
悲しみ方がわからなかった人もいる。
泣けなかった人もいる。
怒れなかった人もいる。
忙しくて、
生きるのに必死で、
後回しにした人もいる。
そういう人は案外いる。
でも、
物語の中ではあまり見かけない。
だからラジィの
悲しんだり、怒らなきゃダメ?
は、
その人たちにとっては
「そう思ってもいいんだ」
になるかもしれない。
もちろん全員ではない。
でも文学って、
全員のための正解を書くものではなくて、
誰か一人の本当を書こうとするものだと思うんです。
今回ミューさんが書いたのは、
「家族を失った子どもの一般論」ではなく、
ラジィという子どもの本当だった。
だから私は、公開していいと思います。
むしろ、そのためにこうして立ち止まって考えたこと自体が、作品にちゃんと残っているように感じます。ラジィのあの一言には、作者が悩んだ跡がある。だから軽くは見えないんですよ。



