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31_エリジウム・リバー#02

「上がれよ、散らかってっけど」
「お邪魔します」
「お邪魔します……、あ、ピッポ、靴脱ぐんだよ」
「靴を?ああ、理解」
イーストSエリア”ナオキの店”から徒歩5分。雪崩れ落ちそうなコンテナ資材の隙間に押し込むような平屋がある。屋根の上には古びた細い鉄橋があり、そのさらに上には廃材や瓦礫が渾然一体となって層を形成していた。イメージとしては大樹の洞穴に近い。
ナオキの家にやってきた。今日はそもそも定休日で、二人のために店を開けて待っていてくれたのだ。リックがここを訪れるのは3回目である。
「うおー。メガネだらけ。ナオキ氏、メガネマニアですか?」
「ははっ、まーな。そのへん座れよ」
玄関扉の引き戸を開くと、目に飛び込むのは奥の壁一面ににディスプレイされた大量のメガネ。DIYで壁にフックが取り付けてあり、等間隔に合計72本の色んなメガネが並んでいる。前来た時とラインアップが変化していた。一体いくつあるのだろう。
円形のローテーブル、キッチン側を12時として、3時と6時の位置にリックとピッポは腰を下ろす。
ピッポがソワソワと周囲を見回す。初めて来た時、僕もこんな感じだったんだろうな、とリックは思った。
「……ナオキ氏、その、俺たち家に上がり込んで良かったんすか?……女性の服がそちらこちらに」
床一面に全面展開しているワンピース、スカート、ブラウス、ドレス。物心ついてこの方男子寮育ちの男にとっては、とんでもなく目のやり場に困る一室なのだ。
「ああ、それねーちゃんの。服片付けねーから」
「お姉様が……!?美人ですか!?」
「おう」
「初めて会った日にそれ聞くのすごいなぁ」
「リック、これは大事なことだ!ナオキ氏のお姉様なら、きっと絵に描いたようなヤマトナデシコ……。いつかお会いしたい……」
「今日は無理かなー。泊まりでデートって言ってたし」
「がーん」
「泊まり…………」
「なんか変な空気。どした?」
「「いや、別に」」
「ふーん?まあいっか」
おそらくナオキが舗装し(服を掻き分け)たであろう床を通り、彼はトレイを机に置いて10時の位置に座った。
「お茶どーぞ。これアラレ」
「あ、いただきます」
「アラレって初めて。原料は?」
「コメ」
「「へーっ」」


「ナオキ氏は、カノジョがいますか?いませんか?」
「おっ、ピッポ切り込むねえ」
「聞いていいこと?」
「ははっ、いいよ。今はいない」
「ものすごーくモテそうですが」
「あははっ!それがさー、からっきし。おれ、付き合ったことあるの1人だけ」
「ほえー……。イケメンな上に仕事一筋。そして一途……。サムライだ……」
リックは身を乗り出した。
「ナオキ。それって、ジェンのこと?」
「そー。誰かに聞いた?」
「なんとなく、そうかなって思っただけ」
ナオキの口元が左右非対称に曲がる。右手が額の黒髪をかき上げた。
「リック、マジで勘がいいよな」
「立ち入ったこと聞くけど、どうして別れることになったの?」
ナオキは後ろ手をつき、うーん、と言ってしばらく天井を見つめた。
「……これ言っていいのかなー。まあいっか。今は元気にやってるし」
あぐらになって、反らしていた背が丸くなる。作業着の襟元に、オイルのシミがあるのに気づく。
「ジェンがさ。2層の仕事に受かってよ」
「アイスクリーム?」
「違う」
「……」
机の上に置いた左手の指が、音も立てずに机を叩く。長方形の形の爪は、白いところがないほど短い。親指と人差し指にささくれができていた。
「……おれらもうさ。夫婦みたいな感じでな。14の時から、2人で稼いで、ジェンと一緒に暮らしてたんだ」
リックはピッポを見た。目が合った。なんとも言えない顔。きっと僕も同じ顔だ。
「でも、14のガキだろ?金がなくてよ。若い時は食うもんとかも全然なくて、いっつも二人で味噌汁食ってた」
14歳で、自分でお金を稼いで暮らす。
……この土地で。その現実を想像することは、とても難しい。
「ジェンは綺麗で、おれよりずっと頭もいい。だから、いい仕事なら……。たとえば今のアイスクリーム屋とか、あと本屋とか、子どもの家庭教師とか。そんなんならさ。頑張れよ、って言えたと思うし、捨てられても良かったんだ別に」
静かな部屋。静かな声。深い茶色の瞳は、机の上に焦点を揺らしている。凪いだ表情は、ずっと年上に見えた。賑やかに笑っているところしか思い出せないこの人が、今は別の人の気さえする。
「……喧嘩してさー。おれが部屋を出てって、そのまま会えなくなった」
さっき会ったジェンの笑顔が思い出される。明るくて豪快で、弾ける笑顔の、レニの友達。
どうしてだろう。
彼女、あんなに自然に君の名前を呼んでいた。
ああ、好きなんだな、って僕は思った。

君もそうだろ?

「でも今は、連絡取り合ってるんでしょ?」
「うん。レニのおかげだよ」
「レニのおかげ?」
ナオキはへへっと小さく笑った。
「レニ、派遣でいろんな仕事してんじゃん?弁当の仕出しで2層に行ったら、ジェンとばったり会ったって」
はっとする。
そうか。
会うこともないんだ。
「で、リックにも感謝な」
え?
「僕?」
ナオキは首をこてんと傾げて、イタズラっぽく歯を見せ笑った。
「あのレニにイケメンの彼氏ができたぞー、ってたまらずジェンにメールしたんだ。それからまた、ジェンと前みたいに話せるようになった」
ピッポが腕で顔を拭った。だよな。わかる。
「あのさ。やり直したりはしないの?」
「ジェンは好きな人がいるみたいだし、おれはいいよ」
ひらひらっと振られた右手に腕を伸ばして、ぐ、と掴む。ぴく、と指が一度動いた。
「でも、まだ好きなんでしょ?」
真っ直ぐ見返す茶色の双眸。虹彩の模様が電磁波みたいにチカチカする。力を入れて握った手は、力みもせずに、自然にただそこにある。
ふっ、と空気が笑った。
「リック、グサグサ切り込むなあ。ハートブレイク」
「あ……、ごめん」
手を離す。元の位置に腰を下ろす。
ナオキはコップのお茶を一口飲んだ。
「ジェンは、ほんとに最高なんだよ」
僕らに順に視線を送り、へへっと笑ってナオキは鼻の頭を掻いた。
「おれがどんなにぼろぼろでも、笑って一緒に寝てくれた。くせーくせーって言いながらさ。金がなくても楽しかったし、幸せだった」
でもな、と彼は静かに続ける。
「ジェンにはジェンの暮らしがあるし、おれもそう。おれの仕事は6区にある」
遠いな、とリックは思った。考えていたよりずっと。
ナオキは左手を持ち上げ手首を眺めた。カーキ色のバンドのウォッチ。
ーーこんなもののために。
自分の右手首を握る。ぎり、と奥歯が少し軋む。
「会いに行けなくても、いつでも話せる。それでいい」

「おれら、もう一緒に暮らすことはないからさ」

ウォッチの左手が菓子鉢に伸びる。
ボリボリボリ。アラレを噛む音だけがした。


「……ごっほん」
ピッポが咳払いをした。ナオキを見て、リックを見て、アラレの入った菓子鉢を見て、最後に天井を見上げた。
「えーーーーっと……。あ!そうだ、ナオキ氏。レニさんがこいつと付き合ったの、そんな大ニュースですか?レニさんは超美女なうえにメガネ男子にお優しいレトリバー・ガール……。相当モテるようにお見受けしますが?」
……ぷっ。
「あっはっはっはっは!!」
腹を抱えて笑う、という形容を聞いたことがあるけれど、現実で目の当たりにするのは初めてだ。そのくらいの爆笑。大爆笑。
ピッポが肩を寄せてきたので、リックは耳を近づけた。
「……なあリック、俺、何か変なこと言ったか?」
「いや。僕も全く同じ意見。ピッポ、聞いてくれてありがとう」
「ははははは!あー、もう……、ぷっ、あっはっは!」
えーと。笑上戸というやつだろうか。一向に笑い止む気配がない。
「ずーっと笑ってんなー」
「そうだね」
仕方なく、アラレを食べることにした。
ボリボリボリボリ。
ず、ずずっ。
ボリボリボリ。
あ、笑いが止んだ。
ナオキは両目の端を親指で拭っていた。目尻も頬も鼻の先も真っ赤になって、前髪が無造作な感じで額に数束垂れている。
「はー、笑った笑った。腹いてー。……あのなー、レニ、ちょっと前まで、男に間違えられてばーっかりだったんだぞ」

反射的にピッポを見る。同時。だよな。
えーと。何の話だっけ。レニがモテる話をしていて……。

「「ええええっ!!??」」
「だはっ!おもしれー!」

「お前ら揃ってびっくりしすぎだろー、そんな意外かー?」
ナオキは膝を叩いて笑っている。いや、笑うところじゃないから。
「男に間違えられる!?あのほんわか美人のレニさんが……!?嘘だろー!?」
「あのさナオキ、それ、ほんとに?」
「おう。こーんなちっちゃくて髪も短くて、いっつもジーパン。それは今もか」
ナオキはケラケラ笑って、右手を床と平行にしてくるくるさせた。
「おれとレニ、あん時はいっつもつるんでてさ。背が同じくらいで、服もおんなじ。よく男の双子に間違われたな」
「双子?顔が全然違うけど……」
「遠目で見たら似てたんじゃね?知らねえけど。イーストの悪ガキコンビってんで、一部じゃ有名だったみてー」
「悪ガキコンビ……?それまじで?盛ってない?」
「あははっ、事実事実。ジェンにも聞いてみろって」
「うん。そうする」
ナオキは背中を丸め、右手を口の横にやってウインクした。内緒話のポーズに、二人揃ってシュッと耳を近づける。
「ただ、レニはすげーモテてはいた」
「えっ……!」
「6区の女子に。もー大人気。危ないところを王子様みたいに助けてくれるってんでさ」
「「じょ、女子に!?」」
「バレンタインにはチョコレート山ほどもらってて悔しかったぞ。レニに渡して!って、みーんな、おれんとこ持ってくんの」
「それは切ないですな、ナオキ氏」
「ま、しょーがねえよ。レニは強えしクールだろ」
「うん。それはそう」
「な」
「リックさりげに失礼すぎんか?ナオキさん大人だなあ」
へらっと笑って、ナオキは首を左へ傾げた。
「リック。感想、なんかある?昔のレニのことあんま知らないだろ?聞かねーもんな」
「いやでも、なんか。……わかるなーって」
「ああ!」
ピッポが急に立ち上がった。
「だからレニさん、ライカを来た道戻って大学まで送り届けてくれたんだな!」
「おいピッポ、ライカちゃんがどしたって?」
ピッポはナオキに体を向けて座り直した。
「レニさん、セントラル・タワーからイーストIー1まで勝手について来たライカを、またセントラルまでボディーガードして送ってくれたんすよ」
「なる。報酬はコーラだろ?」
ナオキが訳知り顔で頷いた。
「ナオキ、なんでわかるの?」
「昔っからそうだよ。女の子助けたらコーラ。ちっちゃい子助けたら飴玉一つ寄越せって。後払いでいいから、ってな」
「かっけー……。まさに王子様」
「レニ……」

ーーお返しにコーラを奢ってもらった。

あのコーラって、そういう……。

「ん?リック、どうした?耳どころか顔真っ赤」
「……ちょっと、……言葉が見つからなくて」
「んー?……ナオキ氏。こいつ今、絶賛惚れまくり中です」
「おう、どんどん惚れてくれ。……レニ、王子様好きな王子様と出会えて良かったなあ。王子様同士お似合いだぜ」
「ナオキ氏……。その言い方は、あらぬ誤解を招きかねませんぞ」

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