「レニ、見ててね!」
「Okay.」
ラジィが重心を低くした。足の指が地面をがっちり掴んで、安定感がある。
体幹はそのまま。ラジィの腕がキレ良く回転。右脚が地面を離れる。
シュン!
「Nice kick!」
「ありがと!スイカ!」
木曜日午前のホワイト家中庭。エルバイト・ガールのスイカが、両手のひらをコツコツコツンと打ち鳴らした。レニも、ラジィの見事な蹴りに拍手を送る。
「ラジィ、すごいわ。この蹴り技、どうしたの?」
稽古を始めて半年以上。初めの頃は歩くのがやっと、と言う感じだった。今では滑らかに走ることや、長距離の歩行もできることは知っていたけれど、無駄のない蹴り技をできるようにまでなっていたことに、レニは驚いた。
ラジィはぴょん!と飛び跳ねる。うん。ジャンプの着地の安定感も抜群。スイカが真似して、レニの隣でジャンプした。目測70センチメートル。なかなかの高度。
「えへへっ!リックお兄ちゃんが教えてくれた!」
「えっ!!そうなの?」
レニの声に、ラジィが素早く人差し指を唇に当てる。
「ジャンにはナイショだよ!勉強の合間にこっそり」
大きな声を出しちゃったみたい。レニはこくんと頷いた。スイカもこくんと頷いた。
「羨ましい。私もリックと手合わせしたいわ」
「あははっ!リックお兄ちゃん、そのこと言ってた!」
「あら。なんて?」
ラジィが、目をくりっと大きくして、左斜め上を見た。スイカが、ラジィの視線の先を見上げる。ずっと遠くに、オータム・カラーのドームの天井。
「えーっとね。レニのことが大好きだから、お願いは全部聞いてあげたいんだけど」
「ふんふん」
「きれいなレニを見ると動けない、って」
「きれい?」
「うん。目に集中して、身体がお留守になるんだって」
手合わせをお願いした時、珍しくリックが歯切れ悪く断ったのは、そういう理由もあったのか。
「へえ。見つめられると動けない、ってそういう意味だったのね」
恋人だから蹴り技に抵抗がある、と彼は言っていたけれど、そもそも蹴り技が出せない状態なのか。
レニは片膝をついて、視線の位置をさっきと変える。
「ラジィ。もう一回見せて」
「いいよ!」
シュン!
腕と足が遠心力で風を切る。上半身は大きく逸れるが、腰の位置が動かない。
レニは、しゃがんだ姿勢で両肘を膝に乗せた。腕の曲げて、両手のひらに顎を乗せる。
いい蹴り。なんとかして、リックと手合わせできないかなあ。
「ラジィ、いいなあ」
「あはは!レニ、子どもみたい!」
ラジィが、しゃがんだレニの顔を覗き込む。スイカは初期位置から動かず、ラジィの動きを目で追っている。
レニはクスッと笑った。
「そうね。リックといると、ちっちゃい子みたいになっちゃう」
「へえー。大人って、恋をすると子どもになるんだ!」
「ふふっ。そうかも」
ラジィが、体の後ろで手を組んだ。目をレニの後ろの、ずっと遠くの方に送る。
「子どもはね。恋をすると、大人みたいに結婚したくなるんだよ」
レニは振り向く。球体壁面に映し出された彩度の低い空が見える。
1層でも、2層でも、3層でも見える、毎日季節が変わる空。でも、生まれてずっと無菌室のレイチェルは、この空を見たことがない。
レニは、ラジィを見上げる。今ここにないものを見るグリーンの双眸。
視線の遠さが、リックの眼差しにどこか似ている。
「今日のラジィは、お兄さんみたい」
ラジィがレニを見る。
「レニって何歳?」
「18歳」
「あははっ!僕、10歳!」
「もっと上に見える」
「レニ、僕と初めて会った時も言ってたね!」
ああ。覚えている。
「そうね。あれからもうすぐ2年か」
ロックをこじ開け、蹴破った扉の先。
青白く発光する、大きな水槽があった。
水中に宝石女。
床に座り込んだ男の子。
私を見て、彼は守るように両手を広げた。
ーー1発3モニカで買うか?
ーーなんのために?
ーー人魚の声を聞きたくないの?
ーーやめとくよ。
ーーこのジュエレッタには、歩行機能がないんだ。
「ラジィも私も、色んなことがあったわね」
ーー良い夜を。
ーー貴女もね。
あの時、殺せば良かったと。
何度かレニは後悔した。
あの脚では、6区に落ちたら生きてはいけない。
今の私には仕事がある。小さい頃みたいに、毎日、街を走り回ってはいられない。
助けられるかわからない。いや、きっと落ちたことにも気づけない。
嬲りものにされて死ぬくらいなら。
地獄を見る前。あの時、親と一緒に殺すのが良かったのでは、と。
「えーと、レニ。僕ね」
ラジィがしゃがんだ。同じ高さの視線で、彼は口をキュ、と引いた。
「お父さんとお母さんと、ターコはいなくなったけど」
そして、自分の膝をコツン、と叩く。カーボンの硬質な音。
「今の僕には脚がある」
コン、と向こうのほうでスイカがラジィの真似をした。
「おじさまもおばあさまも、嫌なところはいっぱいあるけど。僕のことがちゃんと好きだし、悪い人じゃないんだよね」
この男の子は、弱いものではない。
「ジャンがいるし、レニとリックお兄ちゃんもいるし。走っていったらジェニーもいる」
今は子どもかもしれない。でも、すぐに大人になる。
「レニ、あのね。レイチェルが、僕にお願いしたんだ。なんだと思う?」
はにかんだ笑顔。リックの顔が浮かぶ。彼はよく、こんな顔で、私のことを見つめるわ。
「何かしら。教えてくれる?」
「お姫様抱っこ!」
レイチェル。始めて会った時は12歳だった。
ーーその時、私が生きていればの話だけど。
来週のバースデーに、彼女は鼻を鳴らしてそう言った。
「素敵だわ」
鼻の奥がつんとした。
「うん!それが、本当にできることかはわからないけど……」
14歳。あれから2年彼女は生きて、好きな男の子ができて、その男の子にお姫様抱っこをお願いした。
人と触れ合うことができない身体で生まれて、月の空すら見たことのない女の子。
「イイナズケだからね!いつでもできるように準備しとかなくちゃ!」
「ラジィは、レイチェルが好きなのね」
「うん!だから僕、たくさん鍛えて、丈夫な男になるんだ」
レイチェルも、私も。きっと、未来を信じていなかった。
理不尽に奪われるものとして、今日だけを生きていた。
「それって、多分ね。脚がなければ諦めてたこと」
諦めていた。未来を。
ラジィは、レイチェルに未来をくれた。
私も、リックに未来をもらった。
ううん。少し違う。
私たちは、未来を見る目を、彼らにもらった。
ラジィは立ち上がる。レニを見下ろす顔は、とても静か。初めて会った時みたい。
「海は自由なのだろうかって、僕、思っていた」
あの時。銃口を前に、とても静かに私に聞いた。
ーー殺さないの?
殺さなくて良かった、と、心から思う。
「ラジィ。自由は、どこにあるの?」
口を左右非対称に歪めて笑う。私より、ずっと年上に見えた。
「自由って、場所じゃないんだ。多分、諦めない、を選べること」
レニも立ち上がる。ラジィが、自分の腰に両手を当てた。
「僕、今の暮らしが気に入ってるよ」
「そう。私もよ」
ラジィが駆け出す。スイカがラジィに並走する。


