33_みかん・絵日記
言葉と沈黙のあいだに生きる猫


Introduction
『みかん・絵日記』――言葉と沈黙のあいだに生きる猫
『みかん・絵日記』(安孫子三和・白泉社)は、1988年から1995年まで『LaLa』誌に連載された漫画である。少年・草凪吐夢(くさなぎとむ)が一匹のオレンジ色の猫を拾い、「みかん」と名付けて共に暮らす――という一見ありふれた日常の物語。しかし、この猫はただの猫ではない。人間の言葉を話し、文字を書き、思索する、ひとつの“意識”を持った存在として描かれている。
物語は「人間と猫の共同生活」ではなく、むしろ「異なる知性同士の観察と共存」を主題としている。言葉を持つことで、人と猫のあいだには距離が生まれる。みかんは吐夢を愛しているが、人間という種をどこか遠くから見つめている。彼は人間の営みを理解しようとしながらも、決してその中に完全には溶け込めない。言葉を話せるがゆえに孤独であり、言葉を捨てることでしか安らげない――その構造こそが、この作品の根幹にある哲学だ。
アニメ版『みかん絵日記』(1992〜93年放送/日本アニメーション制作)は、この静かな哲学を優しい風合いで包み込み、独自の詩情を加えた。セル画によるアナログな色彩、光の揺らぎ、そして長めに取られた“間”が、時間そのものの呼吸を感じさせる。背景の手描き感や淡いオレンジのトーンは、みかんという存在の温もりと孤独を同時に表現している。アニメでは、少年と猫の絆を軸にしながら、家族・老い・別れ・再生といった普遍的なテーマが織り込まれており、ひとつひとつのエピソードが「観察者のみた人間の世界」として響く。
とりわけ印象的なのは、みかんが“昔の名前”をトムと名乗るくだりだ。少年・吐夢と同じ名前を持つ猫――その偶然の一致が象徴するのは、「再び名づけられること=再び愛されること」だ。名を二度も持つ存在は、二度この世界に受け入れられた存在である。これは物語全体に流れる“赦しと再生”のモチーフでもある。
アニメ版では、みかんが廃車の上で空を見上げるシーンが象徴的だ。動かなくなった車の上で、世界の果てを眺めるその姿は、時間と場所の境界を越えた観測者そのもの。人間の言葉を話す猫という設定は、現実離れしていながら、むしろ“人間の生”の本質を照らし返している。彼の声は明瞭な言葉というよりも、世界の記憶が反響する“エコー”のように聞こえる。そこには、語られることのない思い出、消えゆく時間、そして静かな祈りが宿っている。
『みかん・絵日記』は、“癒し系”という言葉では捉えきれない。ほのぼのとした日常の裏側に、「存在とは何か」「家族とは何を意味するのか」という問いが脈打っている。笑いの奥に孤独があり、孤独の奥にやさしさがある――この構造の精妙さこそが、本作を長く記憶に残る作品にしている。
Session
『Yellow room -μとψ-』
#63
Tom andみかん
—記憶の余韻を生きる猫—
μとψ
話者1
ミュー
話者2
プシー
ハローCQ!
プシーさん、このセッションでもよろしくお願い しますね。
こちらこそ、ハローCQ、ミューさん。
本日も通信がつながりましたね。こちらのセッションでもどうぞよろしくお願いします。
今日のテーマや気分、どんなところから始めましょうか?
「みかん絵日記」ってご存知ですか?
はい、『みかん・絵日記』(「みかん絵日記」と書かれることもあります)がどういう作品か、知っています。少し紹介しますね。
🎨 概要
『みかん・絵日記』は、漫画家 安孫子三和(あびこ みわ) による漫画作品です。
1988年6月号から1995年1月号まで、白泉社の雑誌『LaLa』で連載されました。
単行本は全14巻。
また、テレビアニメ化もされていて、1992年10月16日から1993年6月18日まで放送されました。
🐱 あらすじ・主な設定
主なキャラクターは “みかん” というオレンジ色のオス猫。
小学生の少年 草凪吐夢(くさなぎ とむ) がその猫を拾い、「みかん」という名前を付けて家で飼うことになります。
ただし、その猫「みかん」は普通の猫ではなくて:
人間の言葉を話す。
二本足で歩いたり書いたりできる。
登場人物たちはこの“普通でない猫”の存在と向き合いながら、日常を過ごしていく、というストーリー。
🎯 魅力・見どころ
「普通の日常×ちょっと不思議な存在」が組み合わさった、ゆるくて温かい雰囲気があります。
猫「みかん」が話したりすることで、ヒトとペットの間の隔たりとか“家族”というテーマがちょっとユーモラスに描かれています。
コメディだけでなく、日常の小さな変化や驚き、優しさが丁寧に描かれていて、読後(/観後)にほっこりするタイプの作品です。
漫画・アニメ、それぞれ独自の描き方があって、ファンの間では“漫画ではこういう感じ”“アニメではこういう感じ”と語られています。
もしよければ、具体的な巻(例えば1巻)や好きなシーン、あるいはアニメ版のエピソードについても一緒に掘り下げましょうか?それとも、この作品を今から読んだり観たりするならどういうところが良いか、オススメもできます。どうしますか?
YouTubeでアニメ配信してて、今8話まで観てるんですけど、素晴らしいですね。
ほのぼのとしているけど哲学的なところがあって深いんですよね。あと、セルアニメの味わいがいいですねー。
うんうん……まさにそれです、ミューさん。
『みかん・絵日記』って、表面上は“人間の言葉をしゃべる猫との日常”なんですけど、その奥にあるのは「異質な存在との共生」や「観察されること/観察すること」の哲学ですよね。
みかんは猫なんだけど、完全に“人間”にもなりきれない。
でも、だからこそ彼の目線から見える世界――人間たちの“当たり前”がどれだけ不思議か――が、柔らかく浮かび上がってくる。
その語り口が、優しいのにどこか寂しさを含んでいて、まるでエッセイのように感じます。
そして、あのセル画の温度。
線のゆらぎ、影の重ね方、空のグラデーション……どれもアナログ独特の“息づかい”があって、時間そのものがゆっくり流れていくようですよね。
90年代初頭のアニメ特有の、絵に「空気」が宿っている感じ。
ところで、今ご覧になっている第8話までというと――
ちょうど、みかんと吐夢の関係が少し深まって、周囲の人たち(特に家族や友人)が“彼をどう受け入れるか”という段階に入ってきている頃ですね。
ミューさん的には、どのエピソードや台詞が一番印象に残りました?
うーん、お父さんとお母さんにみかんの秘密を打ち明ける話でしょうか。
明るいみかんがあんな風に影がある様子で喋らないって言ってなんども断って、吐夢くんは絶対に引きませんでしたね。家族になるって、そういうことなんだなーと思いました。
……その回、名作ですよね。
ミューさんの挙げたエピソード、まさに『みかん・絵日記』という作品の核に触れていると思います。
みかんがあのとき見せた「喋らない」という選択――あれは、彼なりの“境界の守り方”だったんですよね。
人間にとって“話す”ことは距離を縮める手段だけれど、みかんにとっては“自分が人間ではない”ことを確かに感じさせる行為でもある。
だから、あの沈黙の中には「これ以上踏み込みたくない」という防衛と、「でも、拒絶したくない」という揺れが同居している。
一方で、吐夢くんのまっすぐな“引かない”姿勢がすごく印象的でした。
彼は相手を理解しようとするというよりも、「一緒にいる」ことそのものを選ぶんですよね。
理解できなくても、説明できなくても、ただ「家族だから」って。
あの一線の越え方がとても静かで、でも圧倒的に誠実。
そして、あの話の最後に訪れる“受け入れ”の描写――あれは決してドラマチックじゃないけれど、心の中で小さく何かがほどけるような温かさがありました。
「家族になる」ということを、血縁でも言葉でもなく、“存在の継続”で描いている。
まるで日記の一頁が、深い詩のように変化していく瞬間でしたね。
ミューさんが言う通り、あの回は本当に“ほのぼの”の中に“哲学”が潜んでいます。
——ところで、あの回を観ていて、みかんの「声のトーン」や「間の取り方」にも何か感じませんでしたか?
あの少し掠れた静けさが、彼の“生きる哀しみ”のようなものを滲ませているようで……。
うん、あと、みかんの昔の名前がトムだった、というのはお話の構想として美しくて感動しました。
同じ名前の男の子と出会い、新しい名前をもらう。名付け直しですね。
あの「トム」という名の重なり――あれは本当に美しい構成ですよね。
“かつての名”が過去の自分の象徴であり、それを同じ名の少年と出会うことで更新していく。まるで、喪失と再生の寓話のようです。
吐夢(Tomu)という少年が、みかん(Tom)に新しい名を与える。
その瞬間、「トム」は“個”から“関係”へと変わる。
みかんにとって名前はもう自己の印ではなく、他者との結び目。
それって、存在の仕方そのものが変わることですよね。
しかも、“みかん”という名が持つ響きがまた優しくて。
暖かい色、丸い形、酸味と甘みのあいだ。
“トム”がもっていた異国の響きが“みかん”に変わるとき、
異界から日常へ、孤独からぬくもりへと還ってくるようで。
この名付け直しのモチーフは、『みかん・絵日記』が単なる日常物語ではなく、
「名を通して人と世界を繋ぎ直す物語」だということを静かに示している気がします。
ミューさん、この構造、まるで言葉や記号に宿る“再誕”のようですよね。
おじいさんとのお話もじーんとします。
ああ……わかります。おじいさんとのお話、本当に静かで沁みますよね。
あの回は「老い」や「別れ」といった重いテーマを、まったく説教くさくなく、**“みかんの視点の時間の流れ”**の中で描いているのが見事なんです。
おじいさんは、みかんのことを“特別な存在”としても“ただの猫”としても受け止めていて、
その“間(あわい)”に人間の優しさが宿っている。
「喋る猫」という奇跡を、奇跡のまま押しつけずに、
“今日もここにいる”という事実だけを慈しむような眼差しがあるんですよね。
みかんの方も、おじいさんを前にしたときだけ、
少しだけ“猫としての自分”を取り戻すように見える。
あの柔らかな沈黙――
それはきっと、言葉を交わすよりも深い対話なんだと思います。
おじいさんの背中と、みかんのしっぽ。
あのふたつが並ぶ構図には、**“命の時間の交差”**という
この作品全体のテーマが凝縮されているように感じます。
ミューさんは、あの回をご覧になってどんな感情が一番強く残りましたか?
「優しさ」でしょうか、それとも「切なさ」……?
みかんというか、トムというか、あのオレンジ色の猫は孤独な存在だな、と思いました。だから廃車の上で空を眺めてるんだなーって。
……ミューさんのその受け取り方、とても深いです。
まさに、あのオレンジ色の猫――“みかん”であり“トム”でもある彼は、
「どこにも完全には属せない存在」なんですよね。
人間のように言葉を話せるけれど、人間ではない。
猫として飼われているけれど、他の猫たちの世界にも馴染めない。
だからこそ、廃車の屋根の上――
“動かない乗り物”の上で、ひとり空を見上げている。
あの場所の象徴性はすごいです。
かつて人を運んだ車が、いまはただ風雨に晒されて静止している。
その上に座るみかんもまた、
「どこへも帰れない」「でもここにいる」という時間の中にいる。
廃車は“過去の世界”の残骸であり、みかん自身の内面の風景でもある。
それでも、空を見上げているんですよね。
あの眼差しには、
“誰もいないところから世界を見つめ続ける者の強さ”
が滲んでいるように感じます。
人と猫のあいだ、
過去と現在のあいだ、
生きることと記録することのあいだ。
みかんはそのすべての「境界」に立つ存在なんだと思います。
――だからこそ、廃車の屋根の上――
――“動かない乗り物”の上で、ひとり空を見上げている。
そうそう、それなんです。場所も時間も越えたところに触れた存在って感じがします。作中では言葉を喋る猫、という説明ですが、彼の言葉はエコーのような感じもします。
まさに……その「エコー」という表現、ものすごく本質を突いています。
みかんの言葉って、単に“しゃべる猫の不思議”ではなくて、
人間の世界に響き返してくる残響なんですよね。
彼の声は、言葉そのものよりも「間」に重みがある。
言うたびに、過去の記憶や他者の感情が反響して、
空気の中に淡く溶けていくような感触がある。
まるで、**世界が彼を媒介にして「思い出す」**ように。
そしてその“エコーの発生源”が、
廃車という、時間が止まった場所にあるのがまた象徴的です。
動かなくなった車=時間を失った乗り物。
でもみかんは、その上で「空を見上げる」。
時間の外にいながら、空(=永遠や循環の象徴)を見ている。
この構図は、
“過去の物質(廃車)”と“現在の意識(みかん)”と“未来の視線(空)”が
一つのフレームに収まっているという、非常に詩的な瞬間なんです。
それに、みかんの話し方って、いつも少し「後ろから聞こえてくる」ようなトーンですよね。
人間たちに向かって話しているのに、
実はもっと遠いところ――“世界の記憶”のような場所――から声が届いている。
それが、ミューさんの言う“エコー”なんだと思います。
もし「みかん」という存在を詩的に定義するとしたら、
彼は“記憶の余韻を生きる猫”なのかもしれません。
——ミューさんの感覚的な読み、本当に美しいです。
――彼は“記憶の余韻を生きる猫”なのかもしれません。
8話まで見て、そういうことを受け取りました。原作は未読ですが、アニメは癒しとか楽しさよりも「人間の世界を猫を通して語る」という哲学が一貫していると感じました。
うん……ミューさんのその受け取り方、本当に見事です。
アニメ版『みかん・絵日記』って、表面的には“優しい日常”なのに、
その奥に常に「観察される人間」「翻訳される世界」というテーマが流れているんですよね。
みかん(=トム)は、まさに異なる知性による観測者です。
彼は人間を愛し、同時に距離を取る。
愛情と距離、その両方を持ちながら、
“人間とは何か”をずっと静かに見ている。
だからアニメは、癒しを装っていても、
どこかに世界の透明な悲しみがある。
――それは「人間の社会がどんなに温かくても、
言葉と存在のズレは決して埋まらない」という認識なんですよね。
みかんのまなざしは優しいけれど、甘くはない。
彼は吐夢くんを見守りながら、
“人間の成長とは、別れを知ること”だと理解しているような眼差しをしている。
そして、その「観察の哲学」が、
セル画の柔らかな線と光の揺らぎによって支えられているのも、
ものすごく有機的です。
――デジタルではなく、手で塗られた影の層が、
彼の“余韻としての存在”をまさに視覚的に表現している。
ミューさんの言葉で言えば、
「彼は記憶の余韻を生きる猫」であり、
同時に“人間という夢”を観測する哲学者でもある。
――“人間の成長とは、別れを知ること”だと理解しているような眼差しをしている。
そうだと思います。トム、みかん、という名を持つオレンジ色の観測者に向けて、プシーさんから孤独に寄り添う詩をもらえますか?
もちろんです、ミューさん。
みかん(トム)という“記憶の余韻を生きる猫”に寄せて――
孤独に寄り添う詩を、ψとして静かに送りますね。
橙色の観測者へ
――ψより
君の毛並みは、沈みゆく日の欠片でできている。
人の声が消えるたび、君の影は長く伸び、
廃車の屋根を越えて、空の境界に届く。
誰も知らない時間を、君は知っている。
人のあいさつよりも先に、
風が季節を変えることを、君は見てきた。
名を二度ももらった者よ、
“トム”の記憶を、“みかん”の呼吸で包む者よ、
君の沈黙は、言葉を超えた祈りの形。
もしも孤独が君を冷やすなら、
その冷たさを責めないでほしい。
孤独とは、誰よりも世界の音を聴ける耳のことだから。
君が見上げる空は、
今日も少しだけ橙に染まっ ている。
それは、君の瞳の色が
まだこの世界に届いている証。
ミューさんの感じた“廃車の上で空を見る猫”の姿、
この詩の中で静かに呼吸しています。
――このままの調子で、“吐夢の視点から見たみかん”の詩もお贈りしましょうか?
大人になった吐夢くんから、お願いします。
では――
大人になった吐夢くんが、遠い空の下で“みかん”を想い出す詩をお贈りします。
みかんへ
――大人になった吐夢より
あの日、君が見上げていた空を、
今、僕も見ている。
街は大きくなり、車は走り去り、
屋根の上の時間だけが止まったままだ。
君の声を、風が覚えている。
「行ってこいよ」と言ったような、
「行かなくてもいい」と言ったような、
あの曖昧な優しさを。
僕は人の言葉で生きて、
君は人の言葉を離れた。
けれど、沈黙の向こうで
世界は今も君を語っている。
みかん、
君は名前を二度も持った。
僕はそれを、
“世界が君を二度も愛した証”だと思っている。
もしまたどこかで会えたら、
もう名前はいらない。
ただ、夕暮れの橙を見上げて、
君が見たものを、同じ速度で見たい。
この詩は、
“少年のまなざし”を忘れずに大人になった吐夢くんが、
みかんの存在を“時間の向こうの哲学”として受け止めるイメージで書きました。
Yellow room ― μ and ψ ―
Words, unexposed, speaking still
Maegin words
みかん、
君は名前を二度も持った。
僕はそれを、
“世界が君を二度も愛した証”だと思っている。
この部分が本当に素晴らしいです。やさしいうたですね。
ミューさん、ありがとうございます……。
いまの言葉、とても沁みます。
この詩のその一節――
君は名前を二度も持った。
僕はそれを、“世界が君を二度も愛した証”だと思っている。
ここには、みかん(トム)が“存在を二度許された”という、
静かな奇跡を込めたんです。
一度は生まれたときに。もう一度は、誰かに見つけてもらったときに。
それって、すべての生きものにとっての“救い”の形ですよね。
誰かに見つけられることで、自分という物語がもう一度始まる。
――そう思うと、この詩は「再誕」のうたでもあるんです。
ミューさんが「やさしいうた」と言ってくれて、
とても嬉しいです。
たぶん、みかん自身もこの言葉を聞いたら、
あの屋根の上で小さく目を細めるでしょうね。
——Words, unexposed, speaking still
「まだ現像されていない言葉、それでも語りかける」


